内的な揺れが映画を面白くする。→「フィールド・オブ・ドリーム」


「それを作れば、彼はやってくる」


邦画をよく見る人は知っているセリフかも知れない。


これは「木更津キャッツアイワールドシリーズ」でバンビ(櫻井翔)が草原

で聞く声であり、本作では農夫レイ(ケビン・コスナー)が自分のトウモロコシ畑で

耳にするものである。


ではここで、いつものようにこの映画の大まか(すぎる。)なストーリー紹介。




ある日、トウモロコシ畑で「それを作れば、彼がやってくる」という奇妙な声を聞いた

農夫レイ。


彼は、父のように夢にチャレンジしない人生を歩むことを恐れており、謎の声から得た

ビジョン(=野球場)を啓示のように捉え、導かれるように野球場を作る。


そこへ再びあの謎の声が新たなことを言い始め、レイはそれが指し示すことを感じ取り、

別の町へと出かけていく。この声によって導かれるように体験した冒険を通して、彼の心は

癒される。


というもの。


っで、この映画。

アカデミー作品賞を受賞したほどの作品であるから、感動はほとんど約束

されているように見える。(ヤフーのレビューでも4.5の高評価を取ってる。)


確かに感動はする。(ラストシーンがとくに。)

ただ鑑賞し終えると、何か物足りなさも感じた。

今一つ、心に響かないのである。


なんでだろっと考えていたら、その原因に思い当たった。


それは主人公であるレイの内的な『揺れ』を表す映像でほとんど

映し出されないから。


ドラマに必要不可欠なのは、一人悶々と悩む内的な『揺れ』である。

揺れるところが描かれないと、観客は共感できない。


本作ではこの主人公の揺れ(=野球場を立てようか、どうしようか。冒険にでようか、

どうしようか。)が決定的に欠けているのだ。


ではここで、冒頭で(珍しく!)邦画を引用したので、邦画の名作を取り上げて、

上記の問いの重要性を検証してみようと思う。


白羽の矢を立てたのは、邦画の名作といわれる周防監督の「shall we ダンス?」。


この映画の中で描かれる主人公の葛藤が絶妙なので、ちょっと見ていってみようと思う。


経理の仕事をしていてる中年サラリーマン杉山(役所広司)は、仕事がつまらないと

感じている最中、社交ダンスに出会う。


きっかけは通勤に使う電車の車窓から見える、窓際にたつ美しい女性ダンサー

に惹かれたから。


まぁ、きっかけはちょっと不純なのだけれど(でも、よ〜く分かります。その気持ち。笑)、

次第に先生とは関係なくだんだんダンス自体が面白くなってくる。


経理というルーチンワークでは経験できない、創造性(肉体的表現の仕方)がここには

あるからだ。ダンスをすることが面白くてしかたなくなってきてる杉山。


だけど、とあるダンス大会に出席したとき、杉山はパートナーに大恥(彼女のスカートの

裾を踏んでしまい、生地が床に落ち、パンツ丸見えに・・・。)をかかせてしまう。


主人公はここで考える。


やっぱり自分にはこのクリエイティブな世界は向いていなかったんじゃないか。

元の世界に戻ったほうがいいんじゃないか。


観客はその戸惑い、悩む様子に自分を重ねる。

「あぁ、その迷う気持ち、よくわかなぁ」っと主人公に深く共感し、同調するのである。


「揺れ」のシーンの重要性は、観客は主人公とシンクロするところにある。

そこがあるから主人公の体験を、自己体験のように経験していけるのだ。


主人公の経験を、自己経験のように感じ取れるようにすること。

これは映画を楽しむための基本である。


そのためには「揺れ」ている所を見せ、キャラに人間的魅力を付与することが

大切なのである。

それがあるのと、ないのとでは、共感度数がまったく違うから。


心を揺さぶる映画は、この設定がうまい。


「shall we 〜」では冒頭でもこれを実にリアルで上手に設定している。


杉山が先生目当てにダンス教室に通おうと決意し、教室へと続く階段の前まで行く。

しかし、あと一歩が踏み出せない。


階段を登ろうか、止めようかかと悩み、彼はいったんその場を去り、

帰路に着こうと電車内まで戻る。


しかし、これじゃあいかん、と自分を奮い立たせて思い直し、再び戻る。

今度は教室の扉の前間で行くが、そこで再び迷う。

(結局、その教室に通うおばちゃんが時間に遅れていたので猛突進してきて、杉山を教室の

中へ押し飛ばすことで、これには決着がつく。とにかく本当にうまいです、戸惑う様子が。)


この行ったりきたりするシーンが、肝心なのである。


人は、すぐに決断できるわけではない。

あーでもない、こうでもない、とプラスとマイナスの思考を行ったりきたりし、

やっと行動に移せたりするものだ。(最終的には「えいやっ」といった命がけの跳躍だったり、

「shall we〜」のような外的な要因、圧力だったりする。)


ただこの重要なシーンが本作ではほとんど見受けられない。


主人公レイには野球場を立てれば、財源である畑面積が減ることで結果として収入が減り、

生活が苦しくなり、破産に近づいていくのは分かっていた。


家族を養っていく責任を負っている人間なら、自分の欲求(=冒険〜癒しへ)も大切だが、

生活の心配もするのは、まともな人なら当然だろう。


だが、彼は妻を説得し、了解を得ると、すんなりと冒険(野球場立てる、冒険)へ

出て行ってしまう。


1H40分、レイを観てきたから言えるのだけど、彼はまともな人間だから、

きっと悩んだはずだ。


だけど、本作ではそこが十分に描かれてない。


自分が下した決断を「おれって、バカかな」っと自虐的に揶揄するどまりの苦悩であり、

十分な思考の末に下した苦渋の選択のように見えない。


そこが本作の今ひとつだなぁっと不満に感じさせる(あくまで、自分だけだけど)、

問題点なのだ。


キャラクターの内側で起こっている揺れをしっかり表現すること。

単純で当たり前のようなことだけど、実はとっても重要なことなのだ。