レヴィナスの他者論→『ヨーロッパ思想入門』

岩田靖夫著の『ヨーロッパ思想入門』に大変美しい筆致でレヴィナスの他者
論が展開されていたので、備忘録としてここに残しておく。

(注:但しワタシ自身、ほとんど内容が理解できていないので、ただの引用
文となっちゃってます。きっと美しさが伝わらない…。)

理性としての私が認識という態度で世界とかかわるとき、私はあらゆるもの
を普通概念によって整理統合し、私の張り詰めぐらせた意味連関の網の目の
中へ秩序づける。それによって、私はすべての存在者を自我のうちに取り込
むのである。この取り込みにより、私は認識されたものを道具化する。
(…)したがって、なんらかのしかたで私に利用され、私の道具となるうち
におかれた、と言ってよい。(p236-237)


だが、他者だけは取り込むことはできない。というより取り込んではならな
いもの(?)であるという。

他者は、つねに私の知を超えるもの、私の把握をすりぬけるもの、私の期待
を裏切りうるもの、私を否定しうる者である。この意味で、他者は無限なの
である。
(…)
 それでは、このような高き者に対して、私はどのように関わりうるであろ
うか。私は、ただ、仕えうるだけである。つねにより高い者に対しては、低
いところから一方的に善意をささげるという関係しかもちえない。なぜなら、
もしも私が私の善意の見返りを他者に要求したとしたならば、それは、他者
を自己の中へ取り込もうとするエゴイズムの変装形態にすぎないのであり、
それ自体が支配であるがゆえに他者とのかかわりを破壊しているからである。
(p238-240)


だが、「高い者」である他者、「私は、ただ仕えうる」ことしかできない他
者にも弱さがある。


他者は無限に高い絶対者である。しかし、同時に、他者は「死にさらされた
弱いもの」であり、「私を孤独のうちに見捨てないでくれ」と嘆願している
ものでもある。
(…)
 他者に出会うということは、自分の好みに合う人、自分に都合のよい人、
自分の気に入る人に出会うことではない。それはただ、自分に出会っている
だけである。自分を拡大しているにすぎない。そうではなくて偶然に出会っ
た人、助けを求めている人、逃げ出したくなるような人、関わりたくないよ
うな人に近づくことが、他者に出会うということなのである。(p242)


こうして私たちは他者に「出会う」。
その例として著者は「サマリアの商人」の説話(聖書『ルカ』)を元に語る。

 人間にとり唯一のおきては「神と隣人を愛することである」との教えに、
「隣人とはだれか」と立法学者が反問したとき、イエスはこう答えた。強盗
に襲われて半死半生で道端に転がっていたユダヤ人のかたわらを、高徳の仔
細と律法に通暁した学者が、見てみぬ不利をして通り過ぎた。それから、ユ
ダヤ人に差別されていたサマリア人が通りかかり、この半死人の面倒をとこ
とん見たのだ、と。(p242-243)


だがなぜ敵対的関係にあった者を「サマリアの商人」は助けたのか。
またそのようなことができたのだろうか。同胞であるユダヤ人すら見捨てた
にも関わらず、敵対者にあたる「サマリア人」がなぜ瀕死の状態にあったユ
ダヤ人を助けたのだろうか。
その答えを、レヴィナスは責任に求める。

偶然に出会った助けをもとめている人、傷ついた人、死にかけている人に
どこまでも関わること、これが他者に出会うということであり、責任を担う
ということである。責任とは自分が選ぶものではない。それは逃れようもな
く課せられてくるのである。(p243)


しかし、そもそも論として、なぜ無理をしてまで他者と関わりあわなくては
いけないのかがわからない。無理をしてまでなぜ関わりあわねばならないの
か。

それは、私たちの記憶が回収できない時間(diachronie)において、私た
ちはその他者に連帯していたからである。すなわち、人間はみな神により無
から創造された者として、質料によってではなく、作者によって連帯してい
るからである。人間の最初の殺人、すなわちカインがアベルを殺したとき、
神の詰問にカインは「私は弟になんのかかわりがありましょうか」と答えて
いる。この連帯の切断が殺人の開始なのである。それゆえ、私たちもアウシ
ヴィッツ南京の大虐殺に責任があるのである。(p243-244)


以上が、レヴィナスの非常に非常におおまかな他者論である。


ヨーロッパ思想入門 (岩波ジュニア新書)

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