わたしは言葉によってつくられる『<宗教化>する現代思想』
どうして同じような歌詞を歌うアーティストが大量にいるのか。
昨夜Mステを見ていたら、何年もまえから疑問に思っているこの問いがまた
気にかかってきた。
どーして、彼らは同じような歌詞を作詞して歌ってしまうのだろう。同じ感
受性を持った人間だからか?同じ時代を生きているからか?それが、同じよ
うな感性の育成に密接にリンクしているのか?
こうした取り留めのない疑問がいくつも内から沸いて出てきた。
通常われわれは「私」が語っている言葉は「私の頭の中にあるマイ辞書に登
録されている言葉を恣意的に選び出し、自由意志でもってその言葉を用いて
他者とコミュニケーションしている」と思っている。つまり私の発言はすべ
てオリジナルなものであって、独創的な言葉であり発言である、と。
だが、もしそうだとしたならば、なぜ同じようなフレーズ、言い回しが世に
出回っているのだろう。おかしいよね。もし各人がオリジナルな言葉を使っ
ているのであったら、われわれのコミュニケーションは成立しなくなってし
まうのではないだろうか。だって、オリジナルなんだから、その意味が解釈、
理解できない。「あー、そういうことね」というイメージと言葉が示すもの
が繋がらない。イメージと言葉が指し示す意味が繋がらなければ、私たちは
「わかった」と言うことができない。
僭越ながら言語に関するこうした疑点をもっていたら、『<宗教化>する現
代思想』でなるほど!という記述を見つけたので、ちょっと難しい文章なのだ
けれど、引いておくことにする。
既に述べたように、「私」が「内面での思考」のために用いる言語は、言
語習得という形で他者から与えられたものである。「内面における自己自身
との対話」には、他者は割って入れないはずなので、「内面における自己対
話の帰結」として「私の口」から発せられる言葉は、「私」にオリジナル
な"生の言葉”である、と我々は思いがちである。しかし、それは根本的に勘
違いである。何故なら「内面における自己対話」のために、「私」が用いて
いる言語自体が既に他者の言語である。しかもその場合の「他者の言語」と
いうのは多くの場合、何かの偶然で「私」のうちに入りこんできたものでは
なく、何度も繰り返して聴かされ、それを「私」自身の声で復唱しているう
ちに、記憶=内面化されたものである。社会で流通している、かなり定型化
されたフレーズや語りのパターンが、「告白」のような「私自身の声で語ら
れたことを私自身が聴く」というプロセスを経て、いつのまにか「私に固有
の言葉」になってしまうのである。(『<宗教化>する現代思想』)
TVに限らず、日常の会話でも何度となく繰り返される言葉・フレーズが存在
するのは、こうした理由で獲得され運用されているのかと思うと得心がいく。
私たちが自由に用いている言葉は「他者の言葉」であったか。
そして、「他者の言葉」を何度も繰り返し使っているうちに、次第に「これ
はオレの独見である」というような気がしてくるという。
このように、「外」から物理的に与えられた言葉が"私の内なる声"に化
けてしまう現象は、やや象徴的に言い方をすると、パロール(話し言葉)と
エクリチュール(書き言葉)の逆転として理解することができる。我々は通
常、パロールが本来の生きた言語であり、エクリチュールは二次元的、派生
的な言語、あるいはパロールを記録して再現前化(represent)するための媒
体に過ぎないと、考えている。近代の言語学もその前提に立っている。「エ
クリチュール」を、神などの物質的な記録媒体上に書き付けられた文字列と
いう狭い意味で理解すると確かにその通りである。しかしこれをやや比喩的
な意味、つまり各人の「記憶=内面」にしっかりと書き込まれている言葉、
あるいは、書き込まれやすいようにフォーマット化された決まり文句のよう
なものだと理解し、かつ「パロール」の方を「私の内面」から"自ずから"湧
き上がってくる"生の言葉"(だと私たちが勘違いしているもの)と考えると
話は違ってくる。(同書)
はて?
どう違ってくるの?
「私」たちが周囲の他者たちから学んだ様々な表現を組み合わせながら
「自分の言葉」を語っている以上、”自然"と「私の口」から出てくるような
言葉であるほど、実は、普段よく耳にする決まり文句(広義のエクリチュー
ル)で、いつのまにか私の「内面」に"自然"と定着してしまったものである
可能性は高い。(…)言語を語る「主体」である我々のすべては、「エクリ
チュール」によって支配され、絶えず、どこかで聴いた風な台詞を思い浮か
べ、口に出し、それを自分自身の思い、自分自身の言葉だと思っている。活
字離れをしている最近の若者でも、事情は変わらない。むしろしょっちゅう
ネットを利用して、ネット上に書き込まれている他人の言葉をコピペ(…)
して、"自分の文章"を作っている内に、他人からの借り物の言葉、台詞、考
え方を、自分のオリジナルな生き生きとした言葉だと勘違いするようになる
若者は多い。(…)
「私」の「内なる声」という形で、「この私」に語りかけて来る「良心」や
「理性」、「本当の私」は、実はそうした外部のエクリチュールの効果とし
て生み出された「虚構」にすぎないのかもしれない(同書)
これは驚くべき知見であると思う。
わたしたちが口にする言葉は確かに他者の言葉である。だから女子高生が
「あいつマジKYだよね」というような口調、独自の造語、文法を用いてコ
ミュニケートしていれば、必然的にその集団は同一の言語・思考回路を形成
していく。つまり、「◯◯◯(←自分のなまえ)的にはさぁ〜」というよう
なプチ独白したり、電車で地べたに股を広げてすわり、マックを食べながら
学校での出来事を報告しあえるようになる。もちろんこれは偏見の多い発言
であると急いで付け加えなくてはならない。多くの女子高生がそのような
方々ではないことは私も知っている。だが、またごくごく少数ではあるが、
実際にこのような方々が実在するのも事実である。そしてそこには集団的圧
力(同じ行動をとらなかったら仲間じゃない)といったものが作用している
ことだろう。加えて、徒党がもたらす高揚感もあるだろう。それは一緒に騒
いでいた女の子たちが下車していき、最後に取り残された子をみればわかる。
たいていシュンとした表情になり黙りこんでしまう。
だが、それらは時間的差異というもはほとんどなく、相乗効果的に作用し合
う。
「エリカ的にはさぁ〜」という口調・言葉を用いることによって、どのよう
に考え感じるかが限定され、彼女はという人間は形成されはじめる。同時に、
彼女が属する集団において「女子高生としての私」という人格が調整、強化、
発展されていく。集団的圧力や高揚感が生じるのは、その後である。
つまり彼女が使用する言葉よって、彼女という存在者自身が規定され、あと
はその後に生じていく。とそう思うのである(そしてこれは余談であだけど、
前述したアーティストたちが同じような言葉で歌うのは、女子高生という集
団よりももう少し拡大された集団(日本人とか地元仲間とかTV視聴者とか)
に意識的・無意識的に所属しコミットすることによって培われてきた言語に
よるものではないだろうか)。
われわれは言葉によって「私」の思考が限界づけられているとは露程も思わ
ない。当然懐疑の対象となることない。だから、好きなようなように言葉を
用いている。
だが、もし言葉というものが「私」という存在者を規定するものであるなら
ば、どのような言葉を自身のうちに取り込み(これはなかなか難しいけど)、
運用するかに関してもう少し慎重な態度をとるべきなのかもしれない。
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