「ハウルの動く城」はオチがない→『宮崎駿の<世界>』

 劇場公開中に『ハウルの動く城』を観たとき、のどに小骨がつっかかったような
違和感を感じた。それは「物語が終わっていない」という違和感であり、今もまだ
刺さっている骨である。
 その理由は、三幕構成を(あえて)無視した構成法にあるのではないかと思う。


 多くの映画は、それも外国映画は通常三幕構成という枠組みを用いて描かれる。
宮崎駿の<世界>』の執筆者、切通理作(きりどおし りさく)は、小説家カー
ト・ヴォネガットが提唱している「シンデレラ曲線」引いている。

物語の<起承転結>構造は別名「シンデレラ曲線」と呼ばれる。不幸なシンデレ
ラが王子様と出会い、幸せを掴むまでの道程は、主人公が欠落したものを取り戻す
過程だ。(宮崎駿の<世界>、444頁)


 ようするにこれは古典芸能のひとつ「能」で使われている序破急のことで、『ハ
ウルの動く城』ならば、突然荒地の魔女に呪いをかけられた少女が(序)、呪いを
解くためにいろいろ苦労し(破)、呪いの解除に成功するOR失敗する(急)という
枠組みのことである(もちろん、ご存知の通り、そんなストーリー展開はぜんぜん
しないですけど)。
 この「枠組みがあるから、観客はなにが起きているのか理解し、ストーリーを見
失わないですむ」(@リンダ・シガー)のである。
映画は物語のはじめで設定されたものに決着をつけて幕を下ろす。
それがスタンダードな映画の終わりかたである。
ならば、とうぜんオチの付けどころは魔法が解ける瞬間になる。
ハウルの動く城』は、しかし、そのような物語の典型的なフォームから意識的に
逸脱する。
「そんなの関係ねー」くらいの勢いである。
なにしろ呪いをかけた荒地の魔女が仲間(家族の一員)になっちゃうんだから、オ
チのつけようがない。
だから、終盤以降この物語がどこに行くのかわからず迷子になってしまい、終わっ
たような終わらなかったような気持ちになってしまう(結局、ソフィーの呪いが解
けたのかどうなのか判然としない。白髪なんだけど、顔は若いから)。
 これが「ハウルの動く城」をみてもスッキリしない理由であったのだと思う。


 しかし切通氏によれば、シンデレラ構造を踏襲しないのは「当たり前だ」とい
う。
 なぜだろう。


 物語の終盤、荒地の魔女が火の悪魔カルシファーハウルの心)を手に入れよう
とし、それを阻止しようとしたソフィーが水をかけるシーンがある。
すると、カルシファーの魔力でその姿を保っていたハウルの城は動力源を失ってガ
ラガラと崩れてしまい、ソフィーは崖の底へ落ちてしまう。
しばらくして崖の底で意識を回復したソフィーは、指にはめている指輪がハウル
居場所を光りで指し示していることに気づき、それにしたがって歩いて行く。
するとそこには「ハウルの城」のドアがあり、開けて中に入ってみると、そこはハ
ウルが「秘密の場所」と呼んでいた美しい花畑の世界が広がっていた。
そこでソフィーは幼少期のハウルが火の悪魔カルシファーと契約を結んでいる風景
を目にする。どうやら時間をさかのぼったようだ。すると、突然指輪が壊れ、足下
に大きな穴が空き、ソフィーは落下していってしまう。
ソフィーはその瞬間、ハウルにむかって叫ぶ。


「わたしはソフィー」
「待ってて、私きっと行くから」
「未来で待ってからね」


こちらを向いているハウルはそう告げる…。


 著者によれば、この一連のシーンは「映画が始まる前からハウルとソフィの二人
は出会っていたこと」を示しているという。
そして、このシーンこそがシンデレラ構成を放棄する理由にあたるシーンだとい
う。

このくだりは、(中略)映画が始まる前からハウルとソフィーの二人は出会ってい
たことも示している。
(中略)唐突に過去の世界に飛んだソフィーは、少年時代のハウルに会い、「未来
で待ってて!」と言い残してふたたび現代に戻った。それはハウルにとっての原風
景であり、つまりソフィーはハウルの初恋の人だったと取れる。
(中略)
 この映画は通常の起承転結の構成を外していることは既に述べたが、終盤近くに
なって、これまで映画で流れてきた時間そのものが転回し、発端と結果がひっくり
返ってしまうのだ。はじめから結果が約束されていたのだから、(中略)シンデレ
ラ曲線に沿って描かれもしないのは当たり前だったのだ。(同書、484-485頁)


 ソフィーがハウルの初恋の人だった、という解釈は瞠目(どうもく)させられる。
就寝中に少女の姿に戻っているソフィーをハウルがみてもまったく驚かなかったこ
との説明がつく。
たしかにね。
言われてみれば、そうかもしれない。
 しかし、不満がないでもない。
というのは、結果(ハウルとソフィーが結ばれる)が約束されていたなら、シンデ
レラ曲線を逸脱してもいいということにはならないからである。
すでにオチがついていたからさ、という説明は大変強引な説明の仕方であるし、仮に
宮崎監督が定番の構成法をあえて放棄し撮影したのだとしても、なぜ観客が迷子にな
ることを知りつつそのような構成法をとったのか、その手法を採用した意義の説明に
はならない。
 今回ハウル(にたいする個人的な)の謎を解く資料として参照した本『宮崎駿の<
世界>』は『ハウルの動く城』に限らず、『風の谷のナウシカ』から最新作『崖の上
のポニョ』までの長編映画すべてをカバーする批評本であり、随所に物語の理解を深
めてくれる慧眼がキラキラ光る読ませる良書ではあったが、わたしは切通氏に宮崎監
督があえて「シンデレラ構成」を外した仮説(あるいは説明)をききたかった。


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宮崎駿の「世界」 (ちくま文庫)

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