ゴールを定義しよう→「クローズzero」

 劇場で予告編をばんばん流している「クローズ zero」を見る。

 物語の主人公滝谷源治(小栗旬)は、鈴蘭高校の頂点(てっぺん)をとるという目標を掲げ、
どこからか転校してくる。

 頂点をとる、といっているくらいだから危険な人なのかと思うと、
偶然知り合ったやくざに教えを乞うこともできたり、友が敵にやられたとなるとカッときて、
すぐに復讐心をギラギラ燃やし実行する人情に厚い人物だったりする。

「俺は頂点をとるんだ。」なんてすごいこというけど案外やさしいところも
あるのね、と親近感を抱かせるキャラでもある。

 その源治がトップをとろうとしている鈴蘭高校で、いまもっとも頂点に近い男といわれて
いるのは、芹沢多摩雄(山田孝之)が率いる芹沢軍団。

 本作では滝谷軍団(転校してから徐々に仲間を作ってく)と芹沢軍団の2つの派閥争いを描き、
滝谷が頂点をとること目指すことをメインにして展開していく。

 で、話は滝谷が頂点を目指す話である。
各派閥は頂点を廻って喧嘩や騙し、駆け引きなどを行っていくわけだけど、
頂点がどうしたらとれたことになるのか、肝心なその説明がない。

 人間には「わからないもの」をわからないままにしておくことに耐えることはできるが、
そのままだと違和感が拭えないのでそれを穴埋めする作業をしたりする。
わざわざ言うまでもなく、仮説を立てて答えを探すという作業である。


・一番強いやつを倒したらとれるのか?(一番濃厚。
でも、そうだとしたら、頂点に一番近い男、山田君は誰を倒してないのか?
その人物名、紹介もない。)

・一番大きな派閥にしたらいいのか?
(この線も濃い。けれど最後の決戦後、戦いに勝利した人物はまだ頂点をとっていない
ようであるから、たぶんちがう。)

・一番信頼を得られればいいのか?
(ほぼない。リーダー、トッップとしての資質としては重要だけれど、
これでは頂点を測ることなどできない。)


 とまぁ、ストーリーと照合する限り、これらではない気がする。

 というのも、ラストシーンまで見てもハッキリしないからである。
(ハッキリ発言しすぎると、ネタバレになるのでここで自制します。)

 なので「どうなったら、これは解決するのだろう?」という疑問が絶えずわき起こり、
むずむずしつつの鑑賞となる。あ〜、むしゃくしゃするぜぃ。

 そんなフラストレーションを抱えたまま数日過ごしていたら、思わぬ所から答えが
与えられた。原作を読んでいる友人に偶然外出先で出会い、その経緯を話したら
「頂点をとるっていうのは、その学校のトップといったらコイツっていう人物として
挙げられる人。」と教えてくださった。

 なるほど。
要は先ほど仮説をたてたもの全てを持っているもの(パワー、統率力、信頼により
ある組織を統治した者)がトップと認識されれるのだね、とやっと納得できた。
(前提として、その配下のものにトップと認められていることが必須であり、鈴蘭
高校はその地域の猛者がてっぺん目指してうじゃうじゃやってくるため、トップを
とるのが難しいのだ、とも言われていてた。)

 そこで思うのだが、ゴールのありかたを事前に提示しないことは良いことなのか、
悪いことなのか、ということ。

 説明してくれないと、僕のような人間は路頭に迷う。

 分からないお前が悪い!と言われればそれまでだが、わざわざ分かりづらくする必要
もないのだから「どのようになれば頂点」なのか知らせてくれたほうが僕のような知識
がなく、にぶい人は助かる。

 ハリウッド映画では、その作品に方向性を与え、ゴールを設定することを映画作りの
キホンとしている。


スターウォーズのルークは、銀河を救えるか?
マトリックスのネオは救世主なのだろうか?
ショーシャンクの空にのアンディーは、自由を手にすることができるのだろうか?


 などなど。
序盤で(15分〜30分くらいまでに)これは示される。(遠回しにサブキャラが
日常会話などの流れで語ったり、主人公が語ったりという形で。)

 こういった答えをラストで知ることにより、そこではじめてふぅ〜と一息つけ、
落ち着けるのである。でなくては、むずむずとサヨナラすることができない。むずむず。


 アリストテレスによれば、物語とは「始め、中、終わり」であるという。
(「詩学」)

人は生まれて、生きて、死ぬ。
人は起きて、活動して、寝る。
僕はネタを考えて、タイプして、ブログをアップする。

 物語に限らず、人生そのものが「始め、中、終わり」で構成されている。
だから、生理的にオチないものに対して「気持ち悪いなぁ」と感じてしまうのである。
(たぶん)

 本作ではオチがない。
前提である問題の答えのあり方が示されないのだから当然ではある。
ゆえにスッキリ感が得られない。

それじゃあ後味がわるすぎる。(ただでさえ大げさな演技(やくざ役のやべきょうすけ。
またキャラクターをダサイ〜カッコいい人物へ昇華しようとしているのがミエミエで痛い。)
をされ、のみならず主人公の友人がさらわれるが、敵の扱い方があまりに道徳的+さらわれるって
もう使い古されてるよ、といった点も不満。他にも多数あり。)

 物語は方向性、ゴールを与えることで機能する。
それによって「あ〜、面白かった」とカタルシスをもたらす。
そのためにはやはりゴールを観客に伝えるというキホン的なことは結構重要なんじゃないかと僕は思う。