知らないのに分かる不思議→「ALWAYS 続 三丁目の夕日」

 前作に続きいい映画だ。
今回も泣ける。

 東大卒なのに立派な肩書きがなく甲斐性がないと苦しむ小説家の茶川(吉岡秀隆)、
借金を返し茶川の元へ返ろうとするが踊り子という立場上迷うヒロミ(小雪)、
家族を失い孤独な人生を歩む悪魔先生(三浦友和)の物語、鈴木オートの息子と
父親の事情でしばらく鈴木オートで暮らすことになったハトコ美加との恋愛模様など。

 どのプロットも胸を打つ。
2時間半という長尺だけれど、まったく時間が気にならない。
良い作品は観客に時間を確認させないものだ。

 映画を見ていると「あぁ、懐かしいわぁ。そんなこともあったよね。」
と古い友人に偶然出会って昔話をし、その頃の情景が対話中にもわもわっと
蘇るあの感じ。三丁目の夕日には、この懐かしさが確かにあり、
しみじみとさせられる。

 といっても僕はその時代を生きた人間ではない。
20代の若造も若造、世間知らずのガキである。
だから、論理的に考えて昭和30年代を懐かしめるはずがない。

 知らないものは、分からない。
文字で語られているものを読んで、「そういうこともあるのかな」、と想像的に
理解するのと、「そうそう、そういったことってあるよね」、と深く共感しながら
読むのでは、当然理解の種類が違う。

 前者は分かっていない。
頭で、理屈で理解しているだけ。そんなこともあるのか、と。

 後者は分かる。
身体に響く形で、僕らに届く。
じーんとしたり、内側でプルプル震えたり、涙を流すかたちで、
何がどうなってこうなっているのか、頭で理解できてなくても自然と
反応している。(コレも不思議。)

 しかし、奇妙なことに本作で語られていることは知らないのに分かる。
不思議と分かる。じーんと身体に響く。
昭和30年代ってこんな感じだったんだろうなぁ、っていう揺るぎない
確信的直感でそう感じる。

 なぜだろ?

 親から、「昔はねぇ、食べるものがなくて、○○なんか(失念)を食べて
生活をしてたんだよ。だから贅沢言わずに食べなさい。」とよく聞かさ
れて育ってきたけれど、そんなものかなと思った程度の認識だった。

 当時の話を仔細に聞いたことはないし、本でも三種の神器の写真を見て、
当時の様子を少し読んだくらいでしかない。映像はもちろん、体験した
ことも当然ない。

 だから普通に考えれば、理解できるわけがない。
だって知らないんだから。

 けれど、そうそうそんな感じ、という昭和30年代と聞いてぼんやりと
頭の隅っこでイメージしていたモヤモヤが、スクリーンいっぱいに実にリアリティー
をもって表現されていたのを、深い理解力でもって共感できた。

 それもはっきりと、これだ間違いない、というくらい確信を持てる形で。
この感覚は劇場にいた人々にも共有されていたように思う。

 本作は初日に見たのだけれど、劇場には子どもからおじいちゃん、おばあちゃんまで
実に幅広い層の人々が見に来ていた。

 そしてみんな総じて泣き笑いを同じポイントで繰り返していた。

 不思議だ。
まるで見たことも、体験したこともないのに知っている。
既視感的感覚。

 不思議なことは続く。
この監督(山崎貴)もその当時を経験していないのに、あのような現実味を帯びたものが
撮れてしまっている。

 もちろんそれを判定することは、当時を生きていた人にしかできない。
撮れているという判断基準は、個人的なそれも想像的なイメージとの一致でしかない。

 ただ僕らが「昭和30年代ってこういう感じだよね。」と想像していた風景、光景が
この作品中に散りばめられていて、それを僕らは深い共感をもって見ることができた、
というのは確かなことなんじゃないだろうかなと思う。

 もしかしたら僕らの無意識領域では時代を未体験でも共有できる何かしらのモノが
あるのかもしれない。それって、こういった面ではすてきな効用だなと思った。

 そしてあの空間(集団で各々が懐かしい光景をふわふわっと思い浮かべている空間)に
観客みんなで浸かっているのはとても心地よかった。

 いい映画みたなぁ。