私の身体は頭がいい。

 先週末に友人が我が家に来宅された。
その友人Yさんとの再会は久しぶりだったので、せっかくだからと、迎えにあがったついでに無理矢理外へ連れ出し、
浜松で有名な居酒屋さん「凛」にて会食。 2次会はカラオケ。喉がガラガラになるまで歌って、帰宅。
自宅では、2人でちびちびとチューハイを飲み語り明かし、朝6時に就寝―

  翌日(というか、同日)お昼前に起きてみると、友人はグローッキー状態。
なんでも前日は、ほとんど寝ていなかったのだとか。

 いやはや悪いことをした。
久々に気の合う友人と再会できたものだから、つい饒舌になって話に付き合わせてしまった。
ごめんね、Yさん。

 っで、その彼を地元の新幹線が通っている駅まで愛車で送り届ける送迎中に、興味深いエピソードをきいた。

 プライベートなことなので、詳細は省くが、ちょっとした詐欺にあったようだ。
そのお話を聞いて、ちょこっと思い出したことがある。

 中・高校生の頃の話だが、出会い系詐欺にあいそうになったことがある。
まだ写真付きのプロフィールなどなかったのだが、かわいらしい文章を書く女の子とメール交換をしていた。

 その女の子は(勝手に想像するに)めちゃくちゃかわいくて、 「えっ、こんなかわいいこが、なぜ?」と
思われるような人物だった。(何度も言うけど、あくまで勝手な妄想。)
当時は今以上に自意識過剰だったから、 まぁもしかしたら自分のユーモアセンスにでも惚れたのかな(おいおい)、
と勝手に理屈づけて信じていた。

 しばらくたわいもないやり取りをしていたら、あり日その女の子が「○○」ってところにに登録して、
そちらでメールのやり取りをしないか、と持ちかけてきた。

 全然いいよ、と気楽に請け合ったものの同時に、どうも怪しいなとも感じたりした。
なので姿を消そうかとも一瞬考えた。

 けれど、そのかわいい女の子との楽しいメール交換や、様々な(妄想)シーンが浮かんできて、
その可能性を握りつぶすのは躊躇し、踏みとどまされた。

 こんなとき身体は賢い。
「撤収ぅ〜〜〜〜!!」 という指示を(全身に寒気と、緊張が走った)ずっと飛ばしてくれていたのだ。

 けれど、頭は 「いや、そうかもしんないけど、もしかしたらという可能性もあるじゃん。」と
可能性を捨てられない。
その節は、運良く登録せずに事なきを得たのだけど(後日、被害が出ていることを知りました。)
女の子との関係を続ける気がき満々だった自分は、あともうちょっとで踏み込むところだった。

 危ない所であった。
このつまらない、幼き日のエピソードから教訓を引き出すとするなら、きっとこうである。

 頭より身体の方が賢い。
そのことである。

 同様のことが「会社の会計がカラダでわかる」という会計の本(というか、 身体の本?)に
記述されている。

 私のカラダはセンサーである。

(中略)

 私たちのカラダには「動く」という機能の他に「感じる」という機能がある。
一般的には動く機能ばかりが注目されるが、前出の「何となく感じる・・・」 とか胃が重たく感じる、
胸の辺りが締め付けられるなどの感覚は、カラダのセンサー 機能の賜である。
私たちのカラダは周りで起こる状況を読み、その読んだ情報に応じていろいろな反応を示す。
そして、私たちの顕在意識が認知できないような情報にも反応する。


 僕たちは日頃頭のことは信用しているのだけど、身体というものに対しては信頼するという考え方は
ほとんどないし、だからもちろん配慮なんてされない。

 そろそろ健康に気をつけなきゃな、ってなことはたまに口にしても、それは身体面を頭が配慮しているのであり、
身体からのメッセージを考慮してのことではない。概して、カラダから届く「サイン」は無視しがちである。

 しかし、いつだって昔を振り返れば、身体は正しいリアクションをしていたことに思い至る。
(昔、かつあげにあいそうになった時。授業中、先生が回答を求めて生徒をギラギラした目で探していた時。
仲のよい女の子との関係が上手くいきそうだ、と思った時。など。)

 普段、頭の方がいい(というか、身体なんていつも顕在意識にあがってすらこない。)
ことがもてはやされ賞賛されたりしてているが、賢いのは案外身体の方かもしれない。

 私の身体は頭がいい(@橋本治

 前述の彼や自身の体験を回顧し、このことを現代に住む僕たちは学ぶ必要があるのかもしれないな、
なんてことを思った。


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