無知の知

たまに自慢ばかりしている人に会う。

会えば自分の虚栄心を満たすためか、しょっちゅう雑学や教養を披露してくれる。
かといって「ウザイよ、あんた」とも言えないので、ふんふんと相づちを打って聞いてあげる。
たまには質問もしてあげる。すると途端に、「そんなこもも知らないのか」と、より悦に浸って
講釈してくださる。

っが、そんなとき、いつも思ってしまう。

「じゃあ、あんたはこちらが知っていることを全て知ってんのか?」
と。

僅かながらの知識量ではあるが、全てを彼が知っているということはきっとないだろう。

とは言うものの、自分にも同様の経験がある。
学生時代、映画通を自称し(恥)、友人のTちゃん(女の子)に
「じゃあ、トム・クルーズって知ってる?」と訪ねたことがある。

そこまでの経緯は忘れたが、Tちゃんは映画についてほとんど知識がないので、ちょっと自慢
してやろうという思いと、これほどの有名人ならば知っているだろうと思って質問したのだと思う。

数秒後Tちゃんから答えが返ってきた。
「知らないよ。だれ、それ」

青天の霹靂という言葉があるけれど、正直いきなりハンマーで殴られたくらいの衝撃を受けた。

「あの、トム・クルーズをしらない?」

突然の衝撃と同時に、チャンスを得たことに気付いた。これで、自慢できるぞ。
その後、数十分間、自慢のチャンスを得た自分が、彼女に映画についてえらそーに語り始めたのは
愚挙は言うまでもない。

けれど、Tちゃんに説明しているそのとき、ふと思った。

じゃあ、トム・クルーズは沢山の映画にでいているけれど、どのような思いで出演しているのだろうか?
彼はどのような信念で出演作をチョイスしているのだろうか?彼はどのような人生をおくってきたのだろうか?
全く知らないなぁ。
まてよ。考えてみれば、自分は確かに映画についてならTちゃんよりは知っているけれど、他の分野に
おいてはどうだろう?まったく敵わないのではないだろうか?

などの疑問がふわふわ浮かんできた。
そして、実は俺は何も知らないのではないか、と思えてきて、羞恥心すら感じていている自分に気づいた。

古代ギリシャの哲人、ソクラテスは自分がほかのものより僅かながら賢いと思うのは、
自分は無知であるということを知っているからである、といった。

最近になって、この考え方の意味が理解できた。
まったくその通りだと思う。

自分は無知であるということを知っているということ。
これが自覚できていれば、そこから「穴埋め作業」ができる。
そると、また一つ賢くなる。繰り返して行けば、もっともっと賢くなれる。

要は「知っているつもり」を排除する、ということだと思う。

無知であると自覚している人と、していない人。
今後の成長曲線はどちらの方が伸びて行くだろうか?

やはり自分の知識量に自惚れるより、無知の知を自覚していることのほうが
健全であり生産的でもあると思う。

つい知らない人をみると、講釈したくなるけれど、それこそ傲慢というものだと思い知るべきだろう。

こんどから「おまえこんなことも知らないのかよ〜」という言葉を使う人が言ってあげよう。
(あんたがいかにモノを知らないか。ということを知らないでクセに説教などして)
恥を知れ、と。(笑)

ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)

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