働くとは、何か?

 働くとは、何か?
かねてからずっと関心のある問題である。

 先週末に、弟を新浜松駅前という地元駅まで迎えにいった帰り道、
この疑問が再び頭の中をぐるぐる回り始めた。

 なんでも弟は、社会人のおつきあいとやらで部長さんのご自宅にお呼ばれし、
ガブガブ飲んできたようである。行くのは勝手だが、終電を逃したから迎えに
きてくれとは何事かと思ったが、「なにとぞお願いします。」とこう低姿勢に
依頼されては、いかないわけにはいかない。
寒空の中、数年前に購入し羽がところどころから飛び出ているくたびれたブルー
のダウンコートをフワっと羽織り、その上にふかふかのマフラーぐるぐる巻いて、
下は寝巻き(紺色)という格好で、しぶしぶ出動。
 
 ドアがベコベコにへこんでる愛車、シルヴィア君をキーをまわしておこす。ブルルン。
どうやら調子がいいようである。よいよし。

 シルヴィアくんを走らせること15分。ようやく指定された場所へたどり着く。
5分ほどハザードをたいて待っていたら、女性を連れて現れた。
どうやら帰り道が一緒であり、我々の自宅の近くということもあり、ついでだから
乗せていってあげるよとご提案したようである。

 はちゃめちゃな格好をしてきているこちらの気も知らないで、いい気なものである。
帰り道、楽しそうな会話が後部座席から聞こえて来る。

 しばらく走って、世間話が尽きた頃、その女性が
「仕事がつまらないのよ。。早く辞めて、家庭に入りたいわ。」とおっしゃっていた。
ドライバーのぼくには発言権がないため、ふむふむと後部座席でこんどは妙に
しんみりとトークする二人の話を盗み聞きしていた。

 その後、無事送り届けられ、ふぅーと一息ついて、自宅へ向かった。
あー、疲れた。


 翌日、起きてから、なぜだ頭に執拗につきまとう言葉に気付いた。

「仕事がつまらないのよ。」

 何度追いやってもずっとつきまとってくる。
・・・わかったよ。
仕方ないので、少し考えてみることにした。

 彼女はなぜ、辞めたいのだろうか?

 やりがいがないのだろう。たぶん、やらされている感や、自分がやっていることの
意義が見当たらないのではないだろうか?

 しかし、やりがいとはなんだろう?
考えてみると、よくわからない。

 好きなことをすることか?
・・・・。
よくわからない。しかし、言えることもある。


 働くことの第一の意義は、自分のために働くことである。


 某アイドルが出演しているCMに、「あなたのために、いい部屋見つけます。
お客様がしあわせのために。」みたいなのがあるけれど、見ていて吐き気がする。
 ウソつくな、といってやりたい。

 まず自分の幸せを追求することが第一の目的であって、その後にお客さんのためだとか、
人のためだとかいった理念、貢献心のようなものが生じるはずである。

 自分と他者の利益のかみ合う所を、すり合わせるようにしていくものではない
のだろうか?

 「アンタがそのCMに出ているのだって、自分の名前を売るためだったり、
CM出演料もらうためだろ。不動産会社の『どこそこがすてきだと思ったから。』という
理由ではないでしょ。」といいたい。

 だれが、最初から「人のために働こう」といって働きだすだろうか。ぼくには
上手く理解できない。そのような人は概してボランティアをやってるわけで、
利益を上げようとはしないんじゃないの。
(またボランティアをしている人ですら、自分のためであるわけだし。)
仲介手数料をがっつりとり、てきとーな接客・物件紹介をしておきながら(体験談。バイアス強し。)
、お客様のために的な標語をのうのうと掲げているのには、腹が立つ。

 話がずれてしまった。

 働くことの目的の一つは、自分のためということであった。
これはいいと思う。
生活のためでもあるだろうし、養うためというのもあるだろうし、自己表現(歌とか絵とか、
ITのなんとか開発だとか)をしたいという目的もあるだろうと思う。

 やはり働くの動機は、自分のためであると思う。
しかし、ただお金を稼ぐだけが目的だけではないというのは押さえておかなくてはならない、
重要であると思う。
仕事をするばお金は入ってくる。そのために、という目的もあるだろう。

 だが、「それだけ」ということもないはずである。
100%中、数%〜数十%までの割合で含まれているとしても、
100%金のため、という人はいらっしゃらないと思う。

 お金は、モノと交換するために、また体験を買うために使うモノである。
だから、モノと交換したり、体験と交換したりするために用いる。

 しかし、そのようにして過ごしていたら、大半の人は思うのではないだろうか。

「あれ。おれなんのために働いてるんだろう?」と。

 さきほどご登場いただいた女性は金銭的には不満はないようであった。
金額的には多くはないものの、納得はしていたようである。
問題は、仕事そのものであり、毎回同じ仕事をこなすことに飽き飽きしていたようである。

 大半の仕事にはルーティンワークはつきものである。
工場でなにかを生産している人から、IT関連のクリエイティブな仕事をしている人まで、
ある一定量のルーティンワークは入りざる得ないと思う。

 問題はそこではなく、仕事そのものの中に自己表現する場がないことであるとおもう。

 名著「働くということ」にこんな一説がある。


「労働がイコール物を作る関係で、仕事をしている人間は幸せだと思う。それは、
どんなに合理化されきても、ものを作っている家庭だけは自分のものだという、
犯されぬ領域があること、その領域の中では、遊びと同様に胸をドキドキさせ、新しい
疑問を自分で作り、それに勝負をいどんでゆく賭けの醍醐味もあるからなのだ。
そこには、遊びと仕事は同質の意義を持つ。(後略)」


僕らは「やらされる」ことを極端に嫌う性質を持っている。

「おい、お前コレやっとけよ。」などといった口調で命令されると、意地でもやりたくなくなるような
あまのじゃくてき性質のことである。

 では、どのような働き方を望むのか?

 同書にはこれについても書かれている。

①人につかわれるのがいやだという気持ち
②自分自身のために働けることへの希求
③自分の仕事の仕上がりへの誇り

 著者によれば、これら三つを実現することが、僕らの労働に向けられた紳士な夢なのであり、
その夢の実現が、「自分自身のために働く」ことに他ならない、という。

これは妥当なものだとおもう。

 少し飛躍するが、僕らは働くことを嫌いなわけではないと思う。
むしろ、情熱を灯して働くことを願っているようにもおもう。

 ただ、今のような形では働きたくないのであると思う。


 学生時代に文化祭でフランクフルトのお店を出すという経験をしたことがある。
これに関わることになる半分以上の人間が否定的に「んなの、やりたかねぇよ。」と言っていたが、
実際やってみるとみんな意欲的に11月上旬だというのに汗をかきながら楽しく働いていた。

 この矛盾した現象はなぜ起こるのだろう?といままで不思議だったのだが、
あそこには自己表現をする場が会ったのだと、今思う。

 フランクフルト一つ焼くのにも、焼き時間に限らず、火加減、ケチャップのかけ方、かける量まで、
さまざまな行程がある。
そこには自分にしか作れないモノをつくってやろう、そして誰よりも上手いフランクフルトを
作ってやろうという意欲があり、情熱がある。

 当初否定的なことをいっていた人たちを、あそこまで楽しく働かせたていたのは、
たぶんその行為に宿る魅力(自己表現)だったのではないかと思う。

 しかし、事務職の彼女にどうしたら職場で創造性を発揮する機会があるだろうか?
う〜ん、事務職で自己表現的な仕事かぁ。

「shall we ダンス?」でも、この問題を扱っているわけだけど、主人公の杉山(役所広司
は仕事ではなく、ダンスにそれを見出したわけだしなぁ。

 で自己表現するとなると、これはまた新たなる問題だな。
・・・これはもう少し時間をかけなくては、この問題は解決しそうもない。

 というわけで、本日はタイムアップ。(いまから仕事のため。)
また次回以降に持ち越し、考えていこうとおもう。(あー、中途半端。ごめんなさい。)


働くということ -実社会との出会い- (講談社現代新書)

働くということ -実社会との出会い- (講談社現代新書)