プライドが高い人=(往々にして)自信がありません 

 昨日発行された「ガッキィファイター」を読んでいて、ぐさっときました。

 《プライドが高い人は往々にして自信がありません。
自信がある人はプライドにあまりこだわりません。》
斎藤環『ひきこもりはなぜ「治る」のか?』)


 この後、日垣さんはつぎの箇所を引いていました。

《ひきこもりの人は一般に、自信がないのにプライドが高い。
いや、自信がもてないからこそプライドにしがみつくのかもしれません。
ひきこもっている人の多くは、自分自身を愛することに失敗しています。
〔中略〕
 なぜ自信がもてないのでしょうか。人がどうやって自信を獲得するのか
を考えてみればわかります。私たちは、さまざまな成功体験や、自らの業績、
あるいは現在の社会的地位、自らの人間関係などによって自信を支えています。
しかるに、ひきこもっている人には、そのすべてが欠けています。これでは自信
がもてないのは、当然といえば当然です。》


 ううっ。まさに昨日の自分のこと。
負け犬の遠吠え。傷を負ったものの復讐。
さんざん吠えただけに、恥ずかしさ10倍です。

 しかし自己正当化はある点では大切だと思います。本の内容がよく理解できないといった
原因をすべて自分の能力の問題に帰すのは早計というものでしょうし、ケチョンケチョン
に罵倒されている対象となった場合、やはり反撃しないとやられてしまいます。

 われわれが生きられるのは自尊心があるからと言えると思います。
だからこそ、必死に自己防衛し自分を癒すのでしょうし。

 ただ、他者からの指摘が的を得ていた場合、どう対処するかが問題なのですよね。

 いわれたことが当たっているだけに、認めるのはものすごいしんどいですが、それをしない
ことには次のステップへいけない。当然、いつもできるわけじゃない。わかってんだよ、と
反発し、そのまままた同じことを繰り返し続けることもあると思います。

 いずれにしろ、肝心なのはそのときの自分の心をチェックすること。
ニーチェがいうルサンチマン(嫉妬などを感じる感情)がないか、どうかというチェック。

 うらみやねたみがあると、どうしても自己を正当化しやすい。すると、いつまでもその
ループを回っていることになる。もちろんそういうときもある。ただ今回のケースで自己欺瞞
状態に陥っているのが個人的には嫌だったので、しぶしぶ認めることにしました。

 こんなとき「各人は各自に最も遠い者である」というニーチェ箴言が思い起こされます。

 自分自身事となると、まるで見えなくなるものですね。
毎度えらそーに他人を厳しく批評しているだけに、恥じ入るばかりです。