劇場観賞 映画批評とは?→「アイ・アム・レジェンド」

 私淑している町山智浩さんが久しぶりにポッドキャストを更新された。


http://www.eigahiho.com/podcast.html(ここからダウンロード可能。第45回目)


 そこで紹介している作品がウィル・スミス主演の「アイ・アム・レジェンド」。
町山さんのこの作品批評を聴いてものすごく興味をかき立てられたので本日劇場へ足を運んだ。



 結論を先取りすれば、本作アイ・アム・レジェンドは失敗作だそうである。


 というのも、アクト3でしっかりオチがつかないから。
(アクトというのは、「幕」という意味で、芝居に用いられる枠組みのこと。
主にハリウッド系の作品は、アクト1、2、3と幕を区切って、物語を展開し観客に提示する。
アーク1では人物の紹介、背景、物語の方向性を提示し、アクト2で展開させ、アクト3で結末
を迎えるといった型。)


 っで、問題のそのオチを確かめたく、さきほど鑑賞してきて確かめてきた。
確かにエンディングは予定調和的でひどくつまらない。はじめから予想していた着地点に落ちた
という感じ。(業界用語で一本道というらしい。)


 この映画をふつーにみると、怪物映画、世直しヒーロー映画ということになる。
ウィルス感染によって怪物化した化け物が、「ぐぁあーーー!」と雄叫び声を上げて
襲って来る。なんとかその怪物たちをやっつける、バイオハザードや28日後みたいな感じ。


 しかし、ここに氏の視点を入れると、映画は全く別物に変化する。
ウィルス感染による怪物を人間の姿に戻し世界を救う、というヒーロー映画から一転、
イラク戦争でひとりぼっちになってしまったアメリカを象徴的に表した物語に転換する。


 ・・・きっとこれでは意味がおわかりになられないだろうと思う。
なのでここで(やっと)ストーリーのおおまかな筋を少しだけ述べさせていただく。


 本作の主人公ロバート・ネビル(ウィルスミス)は、世界中にウィルスが蔓延し、怪物と化して
しまった人々を元の姿に戻し平和を取り戻すため血清開発をしている研究者。
彼は血清開発の間、怪物たちの居場所をつきとめるために、彼は民家を転々と回りっている。


 っが、この怪物たち、「がぁーーー!」と吠えるだけの単細胞ではなく、ちゃんとした意志を
持ち合わせている。仲間がネビルにさらわれると、その光景を見ていた怪物くんは「グァアアア!」
と犬が犬に吠えるような顔で睨みつけ、憎しみをあらわにする。


のみならず怪物くんらは頭もキレるので、ブービートラップをしかけてネビルを生け捕りにしようと
したりする。危うくネビルは殺されそうになる。


また興味深いのは、怪物くんらの群れには、組織を統率しているボスのようなポジションにいる人物?
がおり、子分たち命令しネビルを襲わせるなどする姿から、社会性のようなものまで見てとれること。


 っで、これらをちょっと高い視点からみると、ネビルの行為、およびそれにともなう反作用(怪物
くんらの反撃)は、アメリカ軍がイラクにおいて経験したことと似ている(=象徴的に表現されてる)。
つまりアメリカ軍は戦車にのって家捜しをするんだけれども、向こうも殺されてはこまるから反撃
してきて争いになる。実際これで死者がでて、アメリカ兵にも死者が出てしまっている。


 またこのような光景をみていた世界中が「おいおい、アメリカさん。いいかげんにしなよ。」という
非難の目をなげかけ、アメリカはしうだに孤立していった、というような現象を象徴しているようなので
ある。


 この解釈の仕方には目からウロコがぽろぽろ落ちた。


 ネビルは確かに「世界を救うために」という崇高な目的をもって孤立無縁で勇敢に戦っていた。
しかしいつの間にかネビルが怪物たち多数派にとっての敵であり、少数派になってしまっていた
というお話に、ふつーの見方をしていたらまず気付けない。


 このような視点を提供してこそ批評なんだなぁと大変勉強になった。

映画批評というのは、簡単そうに見える映画に含まれている難しい意味を解き明かす、わかりやすく見せる
ないしは、難しい映画をわかりやすく解説して、解体してくれること。
(by町山智浩 ポッドキャスト 第4回 『映画秘宝の歴史』創刊のいきさつとは? より)
http://www.eigahiho.com/podcast.html よりダウンロード可能。


 映画について語るということにおいて、個人的感想を述べることにどれだけ意味があるのか。
前々から考えのがめんどうで、のばしのばしにし駄弁を垂れ流してきた。


 「めっちゃ面白かったです。超オススメ(笑)」的無意味な感想文を書いてきたことを猛省。
恥ずかしい・・・。


 思うようにモノを語ればいいというわけではない。
 映画の本当の魅力の発見に加え、こんな重要な教えを得られたのもウェブのおかげ。
ウェブは人を少しは賢くさせるのかもしれない。