最近味わったもの 「トゥルーマン・ショー」

またまたさぼってしまった。
自分のダメ人間!
遊びすぎるのも問題だよなぁ。
なにしろ正月はいろいろ食べ物やら、物欲やら、お誘いやらで誘惑が多くて・・。


さて、言い訳はこの辺にして、このブログをさぼっている間、見た映画があるのでぼつぼつと感想を
記しておこうと思う。


年明けに、ピーター・ウィアー監督、アンドリュー・ニコル脚本の「トゥルーマン・ショー」をみた。



物語の大筋は、こう。
東京ドームを何十倍にもしたような空間に人工疑似都市をメディア(TV局)が作り、そこにトゥルーマン
という人物が「オギャー」と泣いて生まれた瞬間から追っかけつづけ、24時間監視し、放送されている。


すくすくとと育ったトゥルーマンは、やがて学生時代に一目惚れをする。
その女性はもちろん番組主催者側が用意した出演者の一人だったのだけれど、以前から一視聴者であたため
彼女はトゥルーマンに惹かれていて、トゥルーマンも彼女のことを一目で気に入り、相思相愛的な関係がは
じまりそうな感じになる。


しかしメディア側は別の女優とトゥルーマンをくっつけたかったので、その恋愛をぶち壊す。
どうやって壊すのか?方法は簡単。父親役のおっさんが車で二人がいちゃついている海辺に駆けつけて、
拒否するその子を無理矢理かっさらっていく。ひどい話だ。その去り際に彼女はトゥルーマンにこういい残す。


「私を捜しにきて」
(場所はフィジーだと、わざわざ親父役のおっさんは言い残していってくれる。)


その後トゥルーマンはメディアが用意した女性とそれと気付かずに結婚するのだけれど、頭は彼女のことで
いっぱい。ずっと忘れられずにいる。
道ばたでコソコソ女性のファッション雑誌などを買っては、例の彼女をより思い出すために、雑誌をぺらぺら
めくって、彼女に似ているモデルさんがいたら、その似ている部位(目とか、鼻とか、唇とか)を切り貼りして
写真を作るほど恋してたりする。


そんな彼の夢は彼女に会いにいくこと。そんな純度100%の恋愛をしているトゥルーマンは、のちに人工世界に
住み、育ってきたことに気付き(マトリックスみたいだ)、メディア側から「なぁ、トゥルーマン。考え直せよ。
この世界は安全だぜ。」というような言葉で諭され、物理的な障害まで与えられるという理不尽な行い(=障害)
もはね除け、最終的にその世界から逃れ彼女の元へ旅立っていくー


っと、お話的にはものすごいキレイ。
トゥルーマンの旅に共感するし、やっぱり感動もする。
けれど何度か鑑賞していると、やはり意識的に追い払っていたぬぐいきれない疑問が生じてくる。


なぜこの映画はトゥルーマンの性的な場面を排除するのか?
映画の筋とはあまり関係ないけれど、この疑問はこの映画での最大の疑問、っていうか最大の関心点である。


この映画は意図的に性的なシーンをいっさい見せない。
妻との性行為も、音楽がなり、風になびくカーテンが映る画面に切り替わり、視聴者はそれを聞いて待っている。
(と、視聴者のおっさんはいう。ヴィジュアル化はされてない。)


監視社会から逃れ旅立っていく、という社会的なテーマを描いているのだから、こんな些細な点はスルーして
おくのがベターなのかもしれないけれど、ちっちゃい所にこだわるちっちゃい自分はそこんところが気になって
気になって仕方ない。


だって24時間もずっとトゥルーマンの行動を漏らさずに数えきれないくらい多くあるカメラで
追っているのだから、どうしたってそのようなシーン多々生じているはずである。
それをいちいち排除(なびくカーテン画面に切り替え)していたら、観客はあきちゃうんじゃないか?
それってTV局的には損なんじゃじゃないのか?


例えば、性的に絶頂期にある高校生のころなんか、夜が更ければ夜な夜なひっそりと音を立てずに静かに
TVのスイッチをいれ、向かいあって至福のひとときを過ごすことだってあるんじゃないだろうか。(まず間違いなく。)
それを見て、「おいおい、またかよトゥルーマン。今夜はその辺にしておけよ。」と
視聴者は苦笑しながらも共感して突っ込みをいれずにははずである。入れたいはずである。
その点にこそ、監視者の視点で見ている観客が享受できるシーンなのに、それがない!


まぁ、もちろんポルノものでもなく、家族揃ってたのしめるような番組という設定でつくっている
のだろうから、そのようなリアルな生活様式を表現はできないのだと思う。同情はするよ。
けれど、アダルトな視聴者としては、下ネタを期待せずにはいられない。


観客にあることについて興味を抱いてもらい、考えてほしいならやはり引き込むための意図的な仕掛けが必要である。
別に性的描写だけをみせろっていってるわけじゃない。ドラマの部分ももちろんあっていい。けれど、その
中でちょっとはみたいんだよね。(ウソをついてしまった。凄くいっぱいみたい、の間違いでした。)


だって監視というものの面白さの本質は覗き見であり、何を覗きたいかというと、やっぱりそりゃ下の部分だから。
でなきゃ、アダルトなビデオ(でなく、いまはDVDですね。)がこれほど量産されることもないんじゃないかな。
なかなか覗く機会なんてないから、監視という視点がプレミスになるし、人の興味をひくのだと思う。


トゥルーマン・ショーを見てなにより物足りく、不満を感じた部分はここ。
家族揃って一人の人間の人生を楽しめる番組なんてのが、そもそも無理があるんだよなぁ。
人生の中には、人にみられちゃマズいシーンなんていくらでもあるんだし。
しかし、そこを描かなきゃ面白くないんだから、もう番組が「家族全員」をターゲットにしている点からして間違ってる。
人の汚い点を描かなきゃ面白くないんだから。


いつもお世話になっている町山智浩さんは共著「映画欠席裁判」でこういっている。

ところが「トゥルーマン・ショー」には下ネタが一切ないんだ。
トゥルーマン、昨日は奥さんにアナルを要求!」とか「トゥルーマン、今朝はケツの拭き方が甘くてパンツにウンコ!」とか「トゥルーマンの初ズリネタはケイちゃんだった『あたしでコイて欲しかった』(ミーちゃん談)」とか。
(「ファビュラス・バーカー・ボーイズの映画欠席裁判」 p75)


(笑)まぁ、これはちょっと言葉が強いけれど、個人的にはこっちのほうが
ずっと興味深いし、リアルな人間の営みに即した映画になったんじゃないかと思う。


だって通常版トゥルーマン・ショーは描写がキレイすぎて物足りないんだもの。
見てみたいなぁ。アダルト版トゥルーマン・ショー(@映画欠席裁判)。