「隣人を愛しなさい」の本当の理由。

内田樹先生のブログを読んで、なるほどと納得したことがあったので、
そのことを記録に残しておく。


http://blog.tatsuru.com/2008/01/19_0927.php


つい先日、NHKの職員が内部情報(吉野家が回転寿しチェーンを買収という情報)
を利用し、株式を購入し、翌日売り抜け、10〜40万ほどの利益を上げたそうである。


彼らはその一件で逮捕された。
しかし当事者である彼らは、この逮捕に、「えっなんで?」という顔をされたであろうと、先生は予測する。
(というのも、NHKの職員が10万やそこらで人生を棒に振るようなリスクを冒すはずがなく、だとすれば、
そのリスクに対する感覚が欠如されていたからではないかと推測されている。)
そして、このようなインサイダー取引を非常識だと考えないモラルの低下は、現在の
日本社会に蔓延っているモラルハザードの構造を理解する手がかりになるという。


どのように?

おそらく、彼らは子どもの頃から一生懸命勉強して、よい学校を出て、むずかしい入社試験を受けてNHKに採用された。
その過程で彼らは自分たちは「人に倍する努力」をしてきたと考えた。
だから、当然その努力に対して「人に倍する報酬」が保障されて然るべきだと考える。
合理的だ。
だが、「努力と成果は相関すべきである」というこの「合理的な」考え方がモラルハザードの根本原因であるという事実について私たちはもう少し警戒心を持った方がよいのではないか。
前にも書いたことだけれど、当代の「格差社会論」の基調は「努力に見合う成果」を要求するものである。
これは一見すると合理的な主張である。
けれども、「自分の努力と能力にふさわしい報酬を遅滞なく獲得すること」が100%正義であると主張する人々は、それと同時に「自分よりも努力もしていないし能力も劣る人間は、その怠慢と無能力にふさわしい社会的低位に格付けされるべきである」ということにも同意署名している。
おそらく、彼らは「勝ったものが獲得し、負けたものが失う」ことが「フェアネス」だと思っているのだろう。
しかし、それはあまりにも幼く視野狭窄的な考え方である。


この立言は我々に強く共通理解されている考え方ではないだろうか。


子どもの頃から両親が勉強しろ、勉強しろ、良い大学に入ってよい就職先を見つけ、よい給料、よい待遇の職業
につきなさいと言われてきて、精一杯努力した人間は「自分が努力したんだから、別に他の誰かに文句言われる筋合いは
ない。自分一人で利益は享受させてもらうよ。」という考え方をされるのは自然なことだろう。
こんな友人や知人は誰一人いないけれども、この考え方は理解できる。非常に合理的だから。
それだけの努力をしてきたのだから、彼らがそれだけの利益を得ることにも異論はない。


しかし、内田先生はその考え方はまずいよとおっしゃる。
では、どうまずいのか?

人間社会というのは実際には「そういうふう」にはできていないからである。
何度も申し上げていることであるが、集団は「オーバーアチーブする人間」が「アンダーアチーブする人間」を支援し扶助することで成立している。
(中略)
「オーバーアチーブする人間」が「アンダーアチーブする人間」を支援するのは、慈善が強者・富者の義務だからではない。
それが「自分自身」だからである。
「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」というのは『マタイ伝』22章39節の有名な聖句である。
それは「あなたの隣人」は「あなた自身」だからである。
私たちは誰であれかつて幼児であり、いずれ老人となる。いつかは病を患い、傷つき、高い確率で身体や精神に障害を負う。
そのような状態の人間は「アンダーアチーブする人間」であるから、それにふさわしい社会的低位に格付けされねばならず、彼らがかりにその努力や能力にふさわしからぬ過剰な資源配分を受けていたら、それを剥奪して、オーバーアチーブしている人間に傾斜配分すべきであり、それこそが「フェアネス」だという考え方をするということは、自分がアンダーアチーブメントの状態になる可能性を(つまり自分がかつて他者の支援なしには栄養をとることもできなかった幼児であった事実を、いずれ他者の介護なしには身動きもできなくなる老人になる可能性を)「勘定に入れ忘れている」からできるのである。

先ほど引用した文章で内団先生が「視野搾取的考え方」とおっしゃっていたのは、このことだった。
今ピンピンしていて仕事をバリバリこなし、大いに遊んでい自分も、年を重ね、
次第に身体が傷つき、なんらかの病をもつようになる。
そのようなとき、だれが助けてくれるのか?(僕らはこのファクターをつい「勘定に入れ忘れて」しまいがちである。)


自分たちがいままで「オーバーアチーブする人間」だったなら尚更「オーバーアチーブしている人間」
に「邪魔だよ、おっさん」と邪魔者扱いされ、追放されてしまうのではないか。
それが「オーバーアチーブする人間」の行動原則だから。
これは非常に悲しいことだし、生存戦略的にも正しいとはいえないとおもう。


だから、そんなことは止めようねとおっしゃっているのである。(とおもう)


「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という言葉がある。
これをきいたときから先ほどまで、「けっ」という感じで嘘くさい言葉だとおもっていた。
けれど、この一件で考え方が変わった。
他を愛するということは、自分を愛するということだった。すっかり価値観がガラリと変わってしまった。
使い古された言葉を承知で使わせてもらえば、自分は一人で生きているのではない厳粛たる事実をもっと強く
認識しておかなくてはならないのだろう。

何度も申し上げていることであるが、もう一度言う。
道徳律というのはわかりやすいものである。
それは世の中が「自分のような人間」ばかりであっても、愉快に暮らしていけるような人間になるということに尽くされる。
それが自分に祝福を贈るということである。
世の中が「自分のような人間」ばかりであったらたいへん住みにくくなるというタイプの人間は自分自身に呪いをかけているのである。
この世にはさまざまな種類の呪いがあるけれど、自分で自分にかけた呪いは誰にも解除することができない。
そのことを私たちは忘れがちなので、ここに大書するのである。