読書感想 「疲れすぎて眠れぬ夜のために」by内田樹

昨年の年末のエントリーで、「上昇志向との折り合いが大事」というようなことを今年の抱負に偉そうにも掲げました。


そんなこともあって、久々に先生の著書「疲れすぎて眠れぬ夜のために」(角川文庫 514円(税別)を再読していたら、
具体方策案が見事にひっかかってきました。


とりあえず無謀でもいってみるものです。(笑)


「疲れすぎて〜」にはこんな具体案が書かれていました。

自分の「可能性」というのは、喩えて言えば、ぼくたちを乗せた「馬車」を牽いている「馬」のようなものです。
時々休ませてあげて、水を飲ませて、飼い葉をたっぷりあげて、うんと可愛がってやれば、「馬」は遠くまで歩いてくれます。
でも、とにかく急がせて、少しも休ませずに無知で殴り続けていれば、遠からず過労でしんでしまうでしょう。(同書 p15)


一度読んだだけでは、なんとなくわかったようなきがしただけでしたが、こうして引用してみると、その意味がよくわかりました。
非常によい喩え方だとおもいます。


動機はなんでもいいんですけど、自分の場合なら自信の持てない現状から脱出しなくてはいけないという強迫観念めいたムリな上昇志向が
生じ、過酷な努力を求めます。これは「私には無限の可能性がある」と信じる人にも共通なのではないかとおもいます。


このように1ランク上の自分を目指そうとする人には、必然的に努力と相関して疲労が当然やってきます。
それは肉体的に、そして精神的にも。


「おい、この程度の行動量ではまるで足りないぞ!もっと頑張れ!休むなんてもってのほかだ。とにかく、もっと努力しろ!」


1ランク上志向する人がいつも心のうちで唱えるのは、このような言葉じゃないでしょうか。
こうした自分への過度な叱責は、なによりまず精神的披露を伴ってきます。(とにかく疲れる。)
肉体的疲労となってそれが顕在化されるまでには、すこしタイムラグがあります。(過度な運動量による病気。このときようやく判明。)


しかし、これはいずれムリが生じます。
「もう、いいよ。なんだか疲れたし…。」と厭世的になりクサってしまうか、「なんか飽きたな」となるか、バタっと倒れるか・・。
いろいろなパターンはあっても、結局走りきれなくなってしまうという点では同じだとおもいます。


いずれにしろ、なんだか悲惨です。
自分に鞭打ってひぃひぃいいながら頑張ってきたのに、この結果はないだろという気がします。
せっかくある目的地を目指して出発し、最初は意気揚々と歩んでいたのに、ムリに飛ばしすぎたためにヘバってしまった(もしくは
諦めてしまった)のでは、意味がありません。


疲れたら休まなくてはならない。この当たり前のことに気付くべきでした。
でなくては、結果を収穫するまえに大抵ヘバってしまいます。


内田先生の箴言はこう続きます。

自分の潜在的可能性の「限界を超える」ためには、自分の可能性には「限界がある」こということを知らなくてはいけません。
それは愛情と同じです。
愛情をずいぶん乱暴にこき使う人がいます。相手が自分のことをどれほど愛しているのかを知ろうとして、愛情を「試す」人がいます。
(中略)
でも、これは間違ってますよ、愛情は「試す」ものではありません。「育てる」ものです。
きちんと水をやって日に当てて肥料を与えて、じっくり育てるものです。
若芽のうちに、風雪にさらして、踏みつけて、それでもなお生き延びるかどうか実験するというようなことをしても、何の意味もありません。
(中略)
愛情を最大化するためには、愛情にも「命がある」ということを知る必要があります。
ていねいに慈しんで、育てることによってはじめて「風雪に耐える」ほどのつよさをもつようになるものです。
(同書 p16)


最後はこう締めくくられます。

ぼくたちの可能性を殺すものがいるとすれば、それは他の誰でもありません。その可能性にあまりに多くの期待を寄せるぼくたち
自身なのです。(同書 p16)


畢竟、幸せを目指しているつもりで自分の首を自分でしめていたのですね。ようやくこの事実に気付きました。とほほ・・。
自分を愛するというと、まるで慣れていないから抵抗感のようなものを感じますが、いい機会なので、これを機にしっかりと
噛み締めて学んでおきたいとおもいます。


疲れすぎて眠れぬ夜のために (角川文庫)

疲れすぎて眠れぬ夜のために (角川文庫)