掛け替えのない命の持続感を持つこと→「人生の鍛錬」

「昨日の事を後悔したければ、後悔するがよい、いずれ今日のことを後悔
しなければならぬ明日がやって来るだろう。その日その日が自己批判
暮れる様な道を何処までも歩いても、批判する主体の姿に出会う事はない。
別な道がきっとあるのだ、自分という本体に出会う道があるのだ、後悔など
というお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、そういう確信を
(宮本)武蔵は語っているのである。それは、今日まで自分が生きて来たことに
ついて、その掛け替えのない命の持続感というものを持て、という事になるで
しょう。」 (「人生の鍛錬 小林秀雄の言葉」 P139)

ときどき「しまったぁ」と後悔するときがある。
もう明日からこんなことしてはいけないと胸に誓うことがある。
個人的にはなんどもある。


でも、そんなとき僕らは本当に心から後悔しているといえるだろうか。
その内実はただ嘆いているだけであって、「明日からは改めよう」と口には
だしても、実際変える意気などはなく、ただ「後悔」するというカタチをとる
ことで自分に許しを与え安心を獲得しているだけの自己欺瞞なのではないのか。


人生は一度きり。
使い古されたこの常套句を僕らは知っている。その重要性も知っているつもりでもある。
けれど、知っているだけで、実際それを「確信」して生きることはそうそうできない。


小林秀雄の上の箴言をきき、今「後悔」しているこの自分がそう。
明日になればすっかり忘れてしまい、また後悔する。
なんて意味ないんだ〜。


そこに欠けているもの。
それが「掛け替えのない命」だという生の有限性の自覚ということになるのだろう。


けれど、自覚を持てといわれても「はい、わかりました。」と簡単に
持てるものではない。事がそんなにも容易なら、先達のこの言葉がぼくらの胸に
「ズキン」と突き刺さるわけがない。


宮本武蔵を描いた週刊モーニングで連載中の「バカボンド」(@井上雄彦)など
の偉人の生き様に触れた時、「これからは真剣に生きなくては」と決意する
ときはある。


しかしその決意を持続する段となると、とたんにハードルが高くなる。
後悔のない人生をおくろうと決意したその心も、翌日にはキレイサッパリ
消えてしまっているのが常である。


畢竟、覚悟の問題なのかもしれない。
後悔しないぞと誓いを立てれば、生が要請する生き方は当然過酷なものになる。
困難が事前に前景化する(=想像できる)というのは、やはり尻込みしたくなる
ものである。緩み甘えたきった意思で生きてきたものにとっては、とりわけ断固
たる決意で敢行することが困難なのも経験的には得心がいく。


では、どうやって覚悟するか。
それが一番難しいですが・・。
飛び込むのも一つだよなぁ。逃避できない環境に。


というやわいオチで恐縮ですが、小林秀雄が読者に語る言葉には、さきほど上げたような
自己(ひいては人間)に対する誠実な省察から思索へ誘う言葉にあふれています。
個人的にはニーチェを思い出させ、読んでいると日頃あいまいにしてきていた問題や
「うっ、そこを衝かれると痛い」という点がいくつも発見でき、ひとりで静かに思索
できるという楽しい時間を過ごせること請け合いです。


人間を知るということに興味があるかたにはぜひおすすめしたい本です。

・人は様々な可能性を抱いてこの世に生まれて来る。彼は科学者にもなれたろう、
軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、しかし彼は彼以外のものにはなれなかった。
これは驚くべき事実である。


・自己嫌悪とは自分への一種の甘えだ。最も逆説的な自己陶酔の形式だ。


・諸君がどれほど沢山な自ら実行したことのない助言を既に知っているかを反省し給え。
聞くだけで読むだけで実行しないから、読者はすでに平凡な助言に飽き飽きしているので
はないか。だからこそ何か新しい気の利いたやつが聞きた度くてたまらないのじゃないか。


・僕等が自分たちの性格に関する他人の評言が気に食わぬのは、自分を一番よく知っている
のは自分だという自惚れに依るものでは恐らくないだろう。凡そ性格に関するはっきり
した定義を恐れているのだ。

人生の鍛錬―小林秀雄の言葉 (新潮新書)

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