先達の金言 「愛せない場合は、通り過ぎよ」byニーチェ

竹田青嗣氏の「自分探しの哲学」(主婦の友社 税込み743)を再読していて、
使えそうな智慧が紹介されていたので、愚かな自分への戒めの言葉として記録しておこうと思う。


「愛せない場合は、通り過ぎよ」@ニーチェ


これだけではまるで意味がわからないので、以下にその説明文を補足。
「あいつ最低だよ。このあいだ割り勘にしようなんていってたくせに、いざ会計時になると、ちょっと
トイレとかいって逃げるんだよ。会計が終わってからひょっこり戻ってきて『いや、悪い悪い。ちょっと気持ち
悪くてね。』だってよ。だったら金置いてから行けよな」


グチグチといつまでも人の悪口をいう人の愚痴を聞くのは、なんとも不快なもので、ずっと聞いていると
こちらが不愉快になり、げんなりした気持ちにすらなってくる。
でも愚痴るという好意は日常的に自分もやっていることだったりするので、責められる立場でもない。


人を罵倒するのは確かに気持ちがいい。抑制しがたい快感が得られる。っていうか、抑えるのなんか
バカらしい。悪口をドバーーーと外に吐き出すことで、ストレスは確かに解消されいている。


でも、なぜあんなに気持ちいいんだろう?


それは相手を扱き下ろすことで、対比される自分という存在が正当化され、優越感を感じるからだろうと思う。


たとえば女の子友達に、
「浮気とかするヤツってクズだよ!」と、浮気されたその子に同情する意味を込めたこの言葉をいうことがある。
しかしその背後には、「自分はそんな人間じゃなく、もっとまともな人間だけどね」言外に込められた意味が
ひっそりと暗示されている。


そこには全然モテない自分を「よい人間」とし、浮気なんかする「モテる男」に対する恨みや妬みがある
かもしれない。っていうか、まず大半のケースはこれだろうな。

ルサンチマンは、自分が不利な立場、弱い立場に陥った時に発動します。それはそういう立場の自分の
苦痛や屈辱や惨めさを、不当なものへの怒り(あるいは義憤)に変え、そのことで「自我」を支えて
くれるからです。(「自分探しの哲学」 p158)


こうして、正義の人となった自分はより正当化され、相手を間違っていると散々非難することで、
怒りのエネルギーはさらに大きくなっていく。


しかし、と竹田氏の(というかニーチェの)言葉は続く。

なるほど、君のいう通り彼らはあるいは愚かっで不正かもしれない。しかし、それがいったい君に
何の関わりがあろう。彼らは、彼ら也の言い分でそうしているのだから、彼らを好きなようにさせて
おくがいい。彼らにはあくまで正しく、あくまで善人であることを求める権利を、君はいったいどこ
から取ってきたのだ?そんな権利はだれにもありはしない。(同著 p159)


確かに女の子友達の彼氏が浮気したことは「良いこと」ではないかもしれない。
けれど、それはこちら側の価値観であり、たとえ社会的な価値観から考えてみても「悪」だとしても、
赤の他人に自分が口を出し、批判すべき点ではない。(そこにルサンチマンを抱えていなければ、
罵倒の意義はもちろんあるだろうけど。)それは当人同士の問題であり、第三者が回収し、断罪すべき
権利などありはしない。


その手の発言の源泉がルサンチマンによるものだったら、ただ自分の恨みつらみを吐き出しているだけ
であり、その点についてエネルギーを使うのは非生産的でしかない。
不満や怒りといった復讐心に燃えるこの行為をすることは自分をスポイルするだけだとも竹田氏はいう。


そもそも僕らは発言することによって何を得ようとしているのか?


むしゃくしゃして相手を傷つけようとして何かをいおうとした時、自分にこう問う必要があるのかもしれない。
うーん。でも、あまりにルサンチマンによる恨みつらみによる発言が多くて、自己嫌悪になりそうだけど…。


最後にニーチェは怒れる人にこんな助言をしている。

しかし、それはなんと愚かなことか。君は、もっとよい感情の中で、美しいものや楽しいもの、他者への
共感や愛情といった感情と関係の中で、いきることもできたはずなのに。そのことを君から妨げているもの
は何もないかもしれないのに。君はあの暗く陰険な飼育小屋こそ自分の生の場所と思い定めて、その中で
とぐろを巻いているのだ。これ以上に愚かな生があるだろうか。
 だから、もう充分理解しただろう。君が正真正銘の愚か者でなければ、いつも強く心に留めていなくては
ならない。「愛せない場合は、通り過ぎよ」と。(同著 p160)


ついつい千人切りしたくなる自分には、この智慧はやはり金句に思われる。


自分探しの哲学―「ほんとうの自分」と「生きる意味」

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