読書感想→「エーガ界に捧ぐ」

三島賞作家でミュージシャンでもあり、映画評論家でもある多才な中原昌也氏の「エーガ界に捧ぐ」を読む。
(本書はspaで連載していたものを単行本化した本。)


マイナーとメジャーな作品にご自身の極度の貧乏話し(ここがツボ。メジャーな人が
金がないっていう悲劇は面白い。)などを絡めて映画について語っている映画評論文である。


しかし映画評論家の町山智浩さんは、
「映画が面白かったとか、つまらなかったとか書いちゃいけないんですね。
それは人それぞれだから。映画評論ってのは画面をみただけじゃ見えない部分をだしてあげること」
と映画批評とは何かについて述べている。


これに大いに賛同するものとしては、この本に書かれていることは映画評論文としては受け取れない。
書かれているのは、個人的な感想文だから。


しかし、どうもわるくない。
映画批評の本来の役割は確かに果たされていないけれど、紹介されている作品の仕方がうまいから、とても見たくなる。
評論をよんでいると、やたらTSUTAYAに原チャリをすっとばしたくなる。
どうどう、落ち着け、オレよ。


それは三島賞作家ご推薦という権威の力か?


まぁ、これはあるよなー。


トッド・ソロンズ監督の「ハピネス」を中原氏が「ぜったいに見るべき映画だといってた」と2chのような
玉石混淆のソースを信頼してTSUTAUAに走ったのも、三島賞作家がいってるんだから間違いないだろ、という
ヘンな確信をいだいてしまったのは強く自覚するところではありますし。


っでこの映画。
自分にはあたまが悪すぎて、ソロンズ監督の主張がまったく読み取れなかった。


ストーリーを見ただけでは理解できない。(のは、自分だけ?)
分からないから悪いというのではなく、ただ理解力が足りないだけ。
こういった作品をみると日頃いかに頭を怠けさせているか痛感する。


しかし、そもそも20代という世代の人間(自分です)は頭を使って見始めた世代なんだろうか。
よくわからない。
ひとつ言えることは、邦画、洋画問わず、今の映画は頭をほとんど使わなくてもわかる作品が多いってこと。


洋画ではハリウッドエンディング系。
邦画では難病モノがとくに象徴的であり、この潮流はいまだ顕在。。
ここが泣き所だからといわんばかりに郷愁心を誘う音楽にのせて「ゴホゴホ。ほんとに◯◯、いままでありがとね。グスングスン。」
的な画をみせてくる演出にはもうウンザリなんですけどね。(この演出は実際に難病に苦しんでいる方々への侮辱だと思う。)


このような作品を浴びていれば、頭はどんどん必要なくなる→退化する→アホになるのも必然か。
ダメダメ作品群もこのような自己弁護のネタとしてはだけは使えるものである。


話がずれてしまった。
映画評論文とは何かについてつぶやいていたのであった。


本書で語られるのは映像作家が語ろうとした見えにくいもの、見えないものを解説している映画評論文ではない。
中原昌也という一人の人間のフィルターを通して紙にアウトプットされた映画感想である。
ただ個人の頭を使ってみて多数の作品を見てこられた方の感想だから、とっても上手いし、映画知識量もアップする。
それにあらかたメジャーな作品を見終えてしまった人には、次にレンタルしたいリストが完成するありがたい本である。


映画評論と虚言をしなければ、おいしい映画感想文なのにねーと思っていたら、前の方のページにこんな
執筆動機が記されていた。


この連載の趣旨は、いま話題の新作映画を見に行く余裕(時間と金)がない読者のみなさんが、代わりに似たような
作品をビデオで鑑賞することで新作映画を見た気になって貰おうというものだ。
(中略)
沢山の世の中に存在する映画たちが実は意識的に無意識的に関係があるのですよ、ということを知って頂くことで
映画の奥深い世界により慣れ親しんで貰えれば、と思っているのである。

ご自身でちゃんと「これは感想文だよ」と断っておられたのですね。
本の帯をみると「映画随想」ともしっかり書いてあるし。さすが三島賞作家!(笑)
おれはどこをみて映画評論文と勘違いしたんだ???


頭を使わずにして映画をみてきたものの帰結はまことにはあわれである。


エーガ界に捧ぐ (SPA!BOOKS)

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