映画鑑賞→「ノーカントリー」

先週末公開された待望の期待作「ノーカントリー」をみた。
すばらしい。
ここ最近のコーエン兄弟の作品「ディボースショー」「レディーキラーズ」「オーブラザー」(じつは
ホメロスの「オデュッセイア」を1930年代のアメリカに置き換えた脚本らしい!)
といった作品はいずれも大変退屈であり、期待していなかっただけに今回の思わぬ収穫はうれしい。



といっても、内容をすべてすっかり理解できたわけじゃない。全然ない。
事前に書評を読み「頭を必要とする映画なんだな」と認識していた(つもり)が、まるで「理解できてなかった。
さぼりすぎている怠惰な頭はいきなりは動いてくれないようだ。


仕方ない。思い出せることだけをたよりに、少し考えてみよう。


この映画で特に大きな注意をひいた点は2つ。
一つは中盤から後半にかけて起こる衝撃的な展開。(ひねり)
突然の出来事で「あれ、あそこにいるのはもしかして・・・」と凝視しないと、
理解できないくらい突然それはおこる。


もう一つはラスト。

あれには「えっ」という声を発してしまったが、そのくらい観客の虚をつく終わり方をする。
なので、後半以降はとくに要注意が必要。スクリーンをボーッとみているだけだとあっという間に
終わってしまう。


っで、ここまで書いて気づく。
やっぱり映画感想文を書くのが難しい。
どこまで内容を暴露していいかという問題が非常に微妙だから。
オチはもちろんいってはダメだし、途中の展開もなるべく知らないほうが絶対に面白い。


たまに予告編を見ていて「あぁ〜、出し過ぎだよー」と感じるときがあるので(そういえば、あの殺人シーンがまだ出てきてないな。
ということは・・・と展開が予測出来てしまうこと)これは自戒するところ。


ただ、何もなしではここに駄文を書く意義すらないので、殺人者「シガー」という人物について少し論じてみようと思う。


今回の殺人鬼シガーには動機というものがない。いや、ないとうことはない。
殺人には動機があるというのが、警察などの捜査の出発点であるし、その捜査方法はまともだ。
人間だから理解できるという考えが根底にある。
ただシガーには一般的に考えられている「動機」がはない。


「浮気したんなら、殺されても仕方ないよ」と誰もがそれが飛躍であるにもかかわらず、可能性として感じられることではある
(とおもう)が、シガーには人を殺害する特別な理由はない。
だから彼の殺害「動機」を観客が理解することはできない。
彼の中に「動機」というものがあるとしたらのなら、それはたぶん「内的規範」、つまり自分で拵えたルールのようなものだけだろう。
それは彼自身によるものであり、他人をどう扱うかは彼の自由。


これは怖い。もちろん人それぞれ、自分のルールというものはあるし、あってもよいことは明白だ。
しかし、ある人物が独自の「ルール」にもとづき、殺人を履行するとなれば、大問題だということは論を俟たない。
勝手なルールで殺されちゃこっちはたまらない。


しかし、シガーのような不条理な死をもたらす存在は突然やってくる。
それを人は拒めない。
自分の意志はともかく、相手がの都合次第でやってくる。ならばそれを防ぐ手だてはこちらにはない。だって、突然だから。


このシガーという人物像について、短文で的確に語っている方がいらっしゃるので、その方の発言を抜粋してみる。


町山智浩さんがコーエン兄弟にインタービューしている記事から抜粋)

イーサン「シガーは出会った人にコインを投げさせて表か裏か当てさせ、外れたら殺す。理由はない。シガーのことを「純粋悪」だと
言った人がいるが、適切ではない。彼は善悪を越えた存在だ。我々を取り巻くこの世界の人格化だ。無慈悲で気まぐれなこの世界の。」


こんなときどうしたらいいのだろうか?
僕らはただあたふたして戸惑うことしかできないのだろうか。
助かるか死んでしまうかはそのときの運次第なのだろうか。


とても難しい問題だ。
この映画の美点はこういった問いかけを与えてくれるところ。(答えは与えられない。)


「いい映画や小説にとって大事なのは答えを与えることではなくて、考えさせられる問いかけをすることなんだ。」
トミー・リー・ジョーンズはインタビューで語ったそうだ。
いいこというなぁ。答えを与えられるとしたら、それは宗教だしね。