論理力の必要性 パート2

さて、すこしおくれてしまったけど本日(ということにさせていただく。)は
「どうやってその論理的思考力を鍛えたらいいのか」という問いに対する解答
(トレーニング法)を記しておく。
(昨日のエントリーでもいいましたが、備忘録と言う点をお忘れなきようお願いします。
個人的なものなのであり、自分用メモなので、かなりえらそーに書いてます。)


それには3つにトレーニング方があるらしい。
それは、


1. 読書(新聞、雑誌を含む)。特に固めの評論がよい。
2. 矛盾の合理化
3. 対話


の以上が論理力を磨くトレーニング法として有効だそうである。


まず、読書は論理力を涵養するには欠かせないものである。これは理解できる。


ある評論文があり、そこにはきっとある主張があり、それがなぜ言えるのかという根拠が示され、
だからこうなるという結論がある。(「おれって嫌いなんだよねぇ。なんてか・・・生理的に。」
的なものはただ随筆である。)
これを論理で追っていくことで、論理的思考の仕方、方法が学べる。


読書とは著者との対話である、とどこかの本で読んだことがあるが(M・J・アドラーの「本を読む本」
だった気がする。)著者の言い分(に、「いや、しかし、私はこう思う。その理由は・・・」という形
で反論していくと、また論理力が鍛えられると思う。ようは根拠に敏感になり、それを論破するための
論理を構築していくプロセスに論理力向上のコツがあるように思う。


つぎに「矛盾の合理化」。
これはちょっと説明がないと理解不能


そのまえに著者の説明を引いておく。


矛盾の合理化とはいったいなんでしょうか。人は生きているうちにさまざまな矛盾に晒されます。矛盾は不快ですから、
矛盾を解決しようとする心の動きが起こります。たとえば憲法の第九条に戦力は保持しない、と書いてあります。しかし、
自衛隊は明らかに戦力です。憲法第九条という観念の世界と自衛隊という現実との間に矛盾があるのです。
 この矛盾を社会心理学では認知的不協和といいます。認知的不協和は人間のあらゆる行動に見られます。この認知的不協和
は不快ですから、人は解消しようとします。これには二つの方法があります。一つは能動的解消です。もう一つは受動的解消です。
 能動的解消というのは矛盾を見つめて能動的にその矛盾を解消しようとする心の動きです。
憲法第九条と自衛隊との矛盾を見つめてその認知的不協和を能動的に解消するには(中略)一つは憲法を変えてしまえばよいのです。
二つ目は自衛隊をなくせばよいのです。三つ目は、この矛盾を埋める理屈を考えだすことです。自衛隊オウム真理教のようなテロや
大規模な暴動で警察力がおよばないようなときのための組織で、決して軍隊ではない、といった理屈でこの矛盾を埋めてしまうのです。
これが矛盾の合理化です。p169)


「勝ち抜く大人」の勉強法 (新書y)

「勝ち抜く大人」の勉強法 (新書y)



たとえば、たいしてお腹がすいてないのに、カップラーメンなどをなぜかつまみ食いしてしまうことがある。
身体はたべものを欲しがってないことがなんとなく理解できる。必要のないものは摂取する必要性もないし、食べて太りたくもない。
だけど、「映画をみるならやっぱコーラとカップラーメンはかかせないでしょ」だなんてことを習慣にしていると、つい食べちゃう。


これは矛盾した現象である。
だって、身体は「いらないよ」と言っているのに、意志が「まぁ、そういわずに、たべようぜ」と提案し、実行される。
自己の利益を優先するのを合理的というならば、これは非合理的行動と言わざるを得ない。


一瞬の悦に浸るために、取ってしまう行動。
これをどう解消すべきか。


1は映画を見ないこと。
2は食べられない環境をつくること。
3はそんな生活をしていると、下っ腹に肉がつき、身体が醜くなり、いまよりもっとモテなくなる。
だから食べない。という論理を勝手に構築していまうこと。


「矛盾の合理化」という方法論は、目の前に起こっている矛盾した現象をなんとか言葉を尽くして
説明してみるトレーニングである。


三番目は「対話」である。
この効用はほとんど説明不要である気がする。


だけれど、備忘録であるので、名著「反論の技術」の一節を引用し、記憶を想起に役立てるために
念のために引いておく。


「討論における思考を、例えば、意見文の文章を書く時の思考と比べてみよう。
もちろん、意見文での思考の場合も、頭の中では「他者」との「対話」が行われ、「他者」による反論・否定によって思考が発展するのであろうが、(一)意見文の場合、反論してくるのは頭の中のフィクションとしての
他者であるのに対し、討論の場合は、現実の、「真の」他者である、(二)意見文においては、自らの誠実さのみをたよりに、意識的に自問自答を繰り返さなければならないが、討論では、こちらが努力しなくても相手が勝手に反論してくれる、(三)意見文尾場合は、それが「真の」他者によるものだけに、こちらが思いもしなかったようなものがでてくる可能性がある、という点で両者は決定的に異なる。つまり、思考を深めることにおいて、討論は意見文よりもいくつかの点で有利な条件をもっているのである。古来、ソクラテス(中略)をはじめとして、多くの優れた人たちが、対話という方法を好んだのも、この理由によるのだろう。(香西秀信「反論の技術」p39)

反論の技術―その意義と訓練方法 (オピニオン叢書)

反論の技術―その意義と訓練方法 (オピニオン叢書)


文章を書くという行為でも、論理力は磨かれる。
PCの前に向かい、今自分が書いているテクストを読む読者を頭の中で想像して、「いま自分は
こう主張したけど、これに対して反論されるかもしれないな。ならば、その反論に耐える主張
とは何か?」のように自問自答を繰り返し、反論に耐えうる主張を作り出していくことで確実
に養われていく。


ただ、そこではイレギュラーな意見はでてこない。
というのも自分の思考枠内での発想には限界があるから。
原理的に「想定外」の意見というのは、外部からしかもたらされない。
(でなければ、本を読んで全身に鳥肌がたつほど、話者の知見に驚き、感嘆するということは
たぶんおこらない。)


そこで、対話の出番となる。
これはネットを利用するといいと思う。
身近なところでは対話(というか、討論)することはやはり難しいと思うので。


以上が著者の提案であったと思う。(大意をだけど。)
というわけで、これを備忘録としてここに残しておく。


明日は(正確には、今日は、です。)「クローバーフィールド」の感想を記そうと思う。