映画【劇場鑑賞】→『ラスベガスをぶっつぶせ』

「ラスベガスをぶっつぶせ」をみる。



なんじゃこりゃ。
『ジャンパー』とおなじくらい無内容でどーでもいいものだった。
なぜこんなにくだらないのか?


① まず物語の核心「カード・カウンティング」という手法がわかりづらい。


記憶力と計算力で確率を割り出してゲームに役立てるもの
らしいが、五秒ほどでパパッと説明するのでまるで理解できん。
必然的にカジノで行われるゲーム緊迫感、スリルってものが微塵も伝わってこなくなる。
物語を「娯楽」として楽しむうえでの重要なファクターであるだけに、これは本作の大きな瑕疵だ。
もしあの説明で理解できる人がいたなら、その人はカウントを知ってた人だね。


② イケメン主人公ベンの動機の稚拙さ。


MITからベンが志望するハーバードの医科に入るのには、二つの道がある。
3000万払うか奨学金を得て入るか。
ただ奨学金をもらえるのは一人のみ。
そこで鍵になるのが成績優秀な他の候補者から一線を画すような驚嘆に価するエピソード(なんの関係が?)。
ベンは「自分には人が驚く体験はない」とともだちに愚痴って、バクチで稼ごうとする。それに異論はない。
たださMITに入れるほど頭脳明晰な秀才くんなんだから、ハーバード以外のオプションを挙げて考えてみても
いいんじゃないの。ハーバードだけがすべてじゃないわけだし。
それに成功しても失敗しても、そんなにヒドい結果にはならないじゃん。ってことで、凡人がベンへ共感する道は
ここで断たれる。


③ヒロインとの恋愛の急展開。


「あんたには興味ないわ」みたいな顔&接し方をしてた同僚の美女がとつぜんベンの膝の上にのってきて、
ディープキスしはじめちゃうんだから、おどろいたね。そのままベッドイン。ブラックジャックで大金稼ぎすぎて
ハイになっちゃったのか。あなた最高にクールだわぁ、みたいな。キャラ描写粗雑すぎ。
先日ディズニーの『スカイハイ』っていうティーン映画を見たんだけど、そっちのほうがずっとよく描けてたよ。
恋愛についても、主人公の抱える問題・葛藤についても。とくに恋している女の子が、他の女の子と楽しそうに
話してる男の子をみるときの切なさや腹立たしさや嫉妬心といった内から沸く複雑な感情表現は見事だった。
そーいった繊細さがこの映画には微塵もない。
観客をなめてる?


④ 天才って凡人の理解を絶する人なんじゃないの。
名優ケビン・スペイシーに「私は滅多なことでは天才とは呼ばない。けど今回は別だ。君は天才だ」(大意)言わせておいて、
その根拠があれですか・・・(劇場かDVDで確認してね)。ってことは、みんな天才だ。


さて、この作品のどこに共感すればいいっていうんだろう。まったく。
無理だよムリ。
まぁ、こんな主観的な感想・批判にほとんど意味がないことは承知してる。
映画が与える印象は万人に共通ではないようにね。


だいぶ飛躍するけど、そもそもぼくらは「物語」に何を求めるんだろう。
ただの暇つぶし?娯楽性?感動?
うーん、どーも今ひとつしっくりこない。


たぶんそれは、


「救われるかもしれないという予感」
なんじゃないなかな。


もうすこし丁寧にいうと、こうなる。


同じ「人間」として生まれてきたはずなのに、俺はどうしてこんなに悲惨な状態にあるんだ!
なぜなんだ!
 この「なぜ」という実存的な疑問が、「二次元」の「物語」を生み出す。
(中略)
その妄想が辿った軌跡が二次元の「物語」になるのだ。物語を妄想する作者は、物語を創ることで
「どうすれば俺はこの三次元の地獄から脱出できるのか」を探求しているわけ。
(中略)
 で、その物語を受け取る読者・視聴者側も、その物語世界を旅しながら「そうか、こうすればこの
地獄から脱出できるかもしれない」という「希望」を抱くのである。(『世界の電波男』p17)
(注釈:ちなみに「二次元」というのはフィクションの世界。「三次元」は現実って意味。)


ショーシャンクの空に』があれほど感動的なのも「救われるかもしれない」という希望を予感させるからでしょ。
悪徳刑務所所長や看守、ホモ三姉妹による殺人・虐待・レイプといった残虐行為は現実社会や制度的なしがらみから
与えられている圧力という概念のメタファーとしてぼくらは受け取り、アンディに共感する。
アンディーがすごいのは地獄のような日々を何年も耐え続け、外の世界へ旅立っていくこと。きっと自分なら一日か
二日で精神がやられる。


なぜアンディは地獄のような日々に耐えられたのか。
それは外的な力(暴力)などでは奪えない「希望」を彼が持ちつづけていたからだ。
だからこそ観客は「もしかしたら自分にもこの現状を打破していくことは可能かもしれない」という希望をもつこと
ができ、同時に大きなカタルシスを観客に感じるのではないか。


現実はたしかにしんどい。
仕事で上司にガミガミ怒られ、ブサイクというだけで女の子にフラれたり、わけもなく学校や職場でいじめられたりする。
永遠に今が続くかもしれない。そう感じさせられる辛苦だらけの現実を生き抜くには、ときに現実逃避と揶揄される映画や
文学や音楽といったものがぜったいに必要なのだ。


だから人は物語を求める。そしてディテールに細かくこだわる。現実とは似ても似つかない「日常」というもの提示される
とついブーイングしてしまうのはそのためだ。


その物語の機能(=救い)をこの映画に求めるのはお門違いだろう。
主人公の葛藤はエリートのものだし、日常はフィクション丸だしだし、現実の悲惨さはまるで反映されてないし。
この映画は単純にカードゲームのやりとりの内に生じる緊張感を味わえばいいんだろうね。
でも肝心のそれすらも、説明不足でたのしめやしない。
この作品は娯楽作として消費するだけでもむずかしいのだ。
ってことで、

残念。合掌。さようなら。
誇大宣伝はいい加減やめてくれよな、TV局。