村上春樹から聞こえる倍音

村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を再読している。
なんとすばらしい作家だろう。
同時代をともに生きていられるられることに、そして日本語でこれを読めることに感謝せず
にはいられない。あぁ、ありがと神様。


その村上春樹の本が素晴らしい理由の一つに、「あぁ、きっとこれはオレのために書かれた
んだな」と深い幸福感を与えてくれるセンテンスを必ず見つけられるという点がある。
どの作品をよんでも必ず数個は発見できるんだから読むのが楽しくないわけがない。
村上春樹の本を読むことがしばしばすばらしい体験になるのはそれが貢献するところが大き
いのではないだろうか。


しかし、これはもちろん錯覚である。
村上春樹がどのようなスタイルで物語を編んでいるのか無識ではあるが、数いる読者のうちの一人に
向けられて書かれたということなどありえない話しである(もしそうであれば、もう村上春樹の本は
書店から姿を消しているはずである)。
ゆえに「これはオレのために書かれたものだ」という妄想は、読者の勝手な読み方によるものである。


しかし、これは確かに自分だけのために書かれているものだと感じ、その錯覚が読者にたいへんな愉悦
をもたらし、この物語を読みすすめたいたいという気持ちを亢進させるのに寄与しているのは確かなこと
のに感じる。


でもなぜそのような錯覚が生じ、読む動機を亢進させるというようなことが生じるのか?

個人レベルでは解決できないくらい難問であることは理解できたので、先達の批評文を当たってみた。
・・・。あった、あった。やはり聡明な批評家は気づいておられた。

村上春樹にご用心』にその答えはあった。

私は音楽に限らず、あらゆる芸術的感動は倍音経験がもたらすものではないかと考えている。
 文学の喜びもおそろくはまた倍音の喜びなのである。
 私たちはそこに「自分が今読みたいと思っている当の言葉」を読み当てて、感動に震える。
「これは私だけのために書かれ、時代を超え、空間を超えて、作者から私あてに今届いたメッ
セージなのだ」という幸福な錯覚なしに文学的感動はありえない。

 (中略)

 映画『アマデウス』の中でモーツァルトの楽譜を盗み見たサリエリが衝撃を受けた経験を語
る場面がある。


  譜面にはどこといって見るべきものはなかった。出だしは単純で、ほとんど滑稽でさえ
 あった。バースン、バセットホルンがぎこちなく響く。さびついたような音だ。だが、突
 然、そのはるか天の高みから(high above it)オーボエが自身に満ちた音色を響かせる。


 サリエリはその瞬間にモーツァルトの天才性を確信して愕然とする。
 「はるか天の高みから」音が響く。そしてそのときに、サリエリモーツァルトの才能に
対するはげしい嫉妬と、「これが天からの声であることを聞き取ることができるのは私ひとり
だ」という「選ばれた聴衆」であることの自負のあいだに引き裂かれる。

 (中略)

 サリエリのこの葛藤はある意味ですべての芸術作品を享受するときに私たちひとりひとりの
うちで起こっていることではないか。
 「これが天からの声であることを聴き取ることができるのは私ひとりだ」という「選ばれた
受信者」であることの確信こそ、「倍音」的芸術がもたらす至上の喜びなのである。
(『村上春樹にご用心』内田樹、p110-112)


さすがウチダ先生。炯眼が光っている。


倍音というのは「基本周波数の整数倍の周波数の音のこと」で、「天から降ってくるようによ
うに聞こえる」音のことである。


芸術的作品を堪能しているとき「あ、いま、すごいこといったよね。ね。ね。いったよね」と
となりにいる友人に相づちをもとめても、「え。そうだった?」とまるで手応えのない答えしか
得られないとき、たしかにぼくたちは「天から降って」きたような音を聞いている。


そしてこの音(=意味・メッセージなど)はじぶんにしか聞こえないのだと、そう確信するとき、
ぼくたちは深い喜びを感じる。


でもまてよ。
もし自分にしか聞こえないことが愉悦の源泉なのだとしたら、村上春樹を読む上でその喜びを担保
してくれるのは、どなたなのだろう?


それは批評家のみなさんである。

 村上春樹の愛読者たちの「選ばれた受信者」の感覚は他の作家に比べてより先鋭であるが、そ
れは彼が「批評家たちにぜんぜん評価されない」という文壇的事実によっていっそう強化されて
いる。皮肉なことだが、批評家たちが「私には何も聞こえない」と声高に言えば言うほど、「で
は、私が聞き取っているこの倍音は、私だけに聞こえているのだ」という読者ひとりひとりの確
信は深められる。批評家たちは逆説的なことに、村上春樹からは「何の音もしない」と言い続け
ることで、販促活動に活発な強力を果たしているのである。(同書 p113)


世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈上〉 (新潮文庫)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈上〉 (新潮文庫)

村上春樹にご用心

村上春樹にご用心