読書【希望をあたえてくれる?】→『空港にて』

村上龍とは、画家であり小説家でもある人だと思ってた。
でも、違うんですね。ネットで検索してみて初めて気づいた。画家の方は「村上隆」だった。
はずかしー。


っで、その村上龍さんの短編小説『空港にて』を味読する(きっかけは内田先生の本)。


いいね。これ。
これを読んで他人事だと思える人はそう多くはないんじゃないだろうか。
そう思わせるほど、物語の奥につよく引きずり込まれ共感させられる。
名作だと思う。


しかし、本書に登場する人物たちが抱える問題はハッキリいってどれも暗い。
読んでいると暗雲たる気持ちにすらさせられる。


大学を中退しつつバーで働いてる青年、リストラされ女子高生とカラオケに興じる
50代のおじさん、離婚して子どもを養っていくために風俗嬢になった中年女性。


どの人物も明るい未来を簡単には想像できない状況に置かれている人たちである。
読んでてしんどくなるのも当然かも。他人事には思えんのですよね。
この閉塞感にみちた現代を生きているなかまとして。


ただ村上龍は本書で読者に失望感を与えたかったわけではない。氏が目指したのは、各登場
人物の物語を介して読者に希望を与えることだった。

近代化の陰で差別される人や、取り残される人、押しつぶされる人、近代化を拒否する人
などを日本近代文学は描いてきた。近代化が終焉して久しい現代に、そんな手法とテーマの
小説はもう必要ない。
 この短編集には、それぞれの登場人物固有の希望を書き込みたかった。社会的な希望では
ない。他人と共有することのできない個別の希望だ。(『空港にて』p183)

本書を読んできっと読者は少なからず傷つくだろうと思う。母親に「あんた勉強しなくていいの」
ともっともな助言を言われることでうける痛み、周囲を見渡したらいつのまにか自分だけが取り残
されていることをしってしまったときの疎外感、焦燥感。
じぶんは読書中なんどもそんな痛みが襲ってきて、自身の不甲斐なさを恥じ悔いることになった。


しかし、これは必要なものなのであると思う。
感動的な作品がつねにそうであるように、物語と一緒になって海底まで沈み(深い痛みを共有し)、
そこから上昇する(救われる)という起伏するフロセスを経ないことには、深いところで「希望」
を感じることはできないだろうし、物語が読者の心に刻まれることもたぶんない。

なんだっていいんだよ。やっとわかったんだけど、本当の支えになる者は自分自身の考え方しかない。
いろんなところにいったり、いろんな本を読んだり、音楽を聴いたりしないと自分自身の考え方は手に入らない。
(同書 p22)


両親から与えられたレールをひたすら歩いてきた(バーで働く)青年が、その苦悩の末に発見した(かれの)真理が
感動的なのは、読者が一緒に彼と海底まで沈んだから生じるものだろう。


本書から得られる希望はキラキラ輝くような未来が得られるかもしれないという種類の希望ではない。
そうではなく、もしかしたら自分も今の問題をなんとか解決できるかもしれないという「願望充足の予感」
(@本多透)なのである。


村上さんは直接指摘は指示してないけど、文学の役割は本来そんなところにあるんじゃないだろうか。
その意味において、本作は十分に機能していると思う(今の苦境を生き抜く希望をいただきました。ありがとー)。
邂逅ってのは必然なのかもね。

空港にて (文春文庫)

空港にて (文春文庫)