日記→『決壊』を読んで

平野啓一郎の『決壊』を読む。
うぅむ、なかなか読ませる本である。
氏の著書として思い浮かぶのは『日食』か。これ、持ってるんだけどいまだ
積ん読状態。買って2、3ページ読んでわからんと切り捨てて本棚の奥に
投げ捨てしまった。難解な用語と舞台である15世紀フランスに関する知識
が皆無だったのがキツかった。ありていにえば尻尾を巻いて逃げわけです。
こりゃ手がつけられない、と。


そんなネガティブなイメージを抱いているもんが、なんの因果で『決壊』を
読むに至ったかと言うと、するどい考察が光っていた『自分探しが止まらな
い』の著者速見健朗さんのブログで推薦されてたというミーハーな理由から。
なんとおろかな。簡単な推薦文、ともいえぬほど、遠回しな誉め方の一言に
背中を押されることとなった。


ただ、と上巻を150ページほど読み終えた今になって思う。
もともと平野氏の小説を「読んでみたい」っていう読書意欲があったんだっ
てことに。そうだよ。オレはもともと平野さんの作品が読みたかったのだよ。
しかし、どこでどう間違えたか、「あれは読むなよ」、っていう声がずっと
邪魔してたんだよ。


たぶんその原因は福田和也さんの評価を信頼しすぎていたことにある。
福田サンは、自著の『作家の値打ち』で平野啓一郎氏の作品群に対し、「作
品自体、多くの瑕」があり、「作品自体よりも、その意志と発意のほとんど
訳のわから」ないもので、それが「具体的な形をとって作品として現れた時
に、その真価が問われるだろう。」という評価を下してる。


いぜんから歯に衣着せぬ発言で文芸書をぶった切ってきていた評者を信頼し
ていたものとしては、「訳のわから」ない作品を読んでる時間はないと氏の
評価をまるのみして判断した。「そういう見方もあるのね」という態度では
受け止めず、ハナっから氏の評価を盲信していたた。これがいけなかった。
もちろん悪いのは論者ではない。権威にすがりつこうとするこちらの弱さで
す。はい。にしても、ほんと強く作用するんだよね。
行動を選択するときにしても、または忌避する力としても。


最近は見かけないけど、細木のおばちゃんが、


「あんたねぇ、今年は◯◯だから気をつけなさいよ」


なんてオカルトなアドバイスを与え、それを目をうるうるさせながら神妙な
面持ちで「はい。わかりました」なんて感動しながらご宣託をききいれてい
る子との一連のやりとりをみていて、「なに言ってんだよ、このババアは。
んなわけねーだろ。…それにあの子も真に受けちゃって。困ったもんだね。
まったく」と埒外にいる視聴者は笑いながら彼らのやりとりをみてたりする
のを見ればわかる。
けどほんとは笑えなかったりする。なぜって、あれとさして変わりがない、
というより同一のことを自分もおもいっきりやってるわけだから。ははは。
なんと無様な。


追憶にふけってみれば、程度差こそあのような光景は日常茶飯事なわけだよ
ね。みのもんたが「ネギはいい」なんていえば、翌日スーパーからネギは消
えるし、「あるある」が宣伝してた納豆なんかもそうだし。
あれらの現象から推してみるに、信頼してる論者の発言力は、その正当性に
関わらず、ただ「評価」だけが受け入れられる。「あいつがいうんだから」、
という相手に委ねてしまった状態において、論者の発言力は想像以上の威力
をみせる。これはちょっと注意しなくちゃいかんですな。


ほんとは「それちょっと読みたい」という自発的な欲求を持っていても、論
者の発言がその自己欲求と異なれば「いやしかし、それは否定されるべきも
のだ」という無意識的な(なかば意識的な)力が抑止力となって作用してく
る。これを跳ね返すのは難しいのはご承知の通り。一人で立ち向かうには勇
気がいる。このどこからおともなく襲いかかって来る力を斥けるためにはま
た他者の意見が必要となったりする。うーん。最低の悪循環。


もともと、必要以上に聞き入れなきゃいいんだよな。
論者の評価を「きみはそう見るんだね」という程度にみて、評価が下された
作品に対してはまた自分が評価を下させばいい。そのための判断材料程度に
みるのが、(むずかしいのだが)妥当なことなんだろうかろうか。


ってことで、覚えておこう。
他者の評価を喜々として聞き入れる者はただの奴隷である。


決壊 上巻

決壊 上巻

決壊 下巻

決壊 下巻