日記→「スマステ 月イチゴロー」

スマステの「月イチゴロー」(8月16日放送)をみて感じたことを以下に記
しておく。以下、稲垣吾郎氏の映画批評。


5位.シティ・オブ・メン』
前作『シティ・オブ・ゴッド』ほどの衝撃はないけど、見終わったあとに重
い気持ちになる。ブラジルが抱える社会問題を描いていて、エンタテインメ
ントというよりはドキュメンタリー。

(中略)

3位.『セックス・アンド・シティー
「凄いリアリティーがあるよね。女性たちが話す下ネタは、具体性がある。
こういうのを見て、いくつにはっても女性はかわいいものなんだなって思う」

(中略)

1位.『崖の上のポニョ
本当にきれいで美しいものを見たっていう感じ。ピュアだしね。確信犯的な
ところもあるんだけど、でも、いいよ。ポニョが初めてしゃべったところと
か、思い出すだけで目頭が熱くなる。(全文、HPからの引用。)


というのが五郎ちゃんの映画批評であった。
ってこれ映画批評なんて代物じゃなくて印象批評じゃん。


「凄いリアリティーがあ」って、「現代の社会問題を描いていて」、「前作
(中略)ほどの衝撃」はないけどそこそこすごい、などというけれど、その
具体的根拠が示される語られることはついにない。
第一、衝撃の多寡に普遍性などないでしょ。感じ方は万人によってちがうな
んてのは小学生でも知っている真理である。
ヒース・レジャーの遺作『ダークナイト』は人間の善性をバットマンに(そ
して観客に)ゲームとして(好きな女か、相棒か、どっちを助ける?みたい
なの)差し出す作品で、あまりの難問に衝撃を受け、とぼとぼと劇場を後に
したのだが、隣席で鑑賞していた友人に感想をもとめると「あ、あれ。最低
だったよ」と一言し、一秒後には別の話題に転じられて終わりだった。
これが自分がどのように感じたのかを根拠に作品を論じることはやはり無茶
だと思う所為である。
ついでにいえば、社会問題を反映しているというのならば、どのような国々
のどのような問題を示しており、それが象徴的にスクリーンに映し出されて
いるのがどのようなシーンであるのか、というような実際的な話を盛り込ん
でくれなくては、ただの抽象論に留まるのみである。面白かったとか、つま
らなかったとか「ポニョがかわいい」と評するのは小学生でもできる。


もちろん上記にて引用したコメント以外にも、吾郎ちゃんは饒舌に作品を批
評していたけれど、総じて主張を補強する根拠・事例はひとつとして示され
なかった。



私たち日本人は論理的思考が苦手なので、つい相手に「な、そういう感じわ
かるだろ」と未完成なメッセージを丸投げする形で発信することがある。言
外に潜む意味はあなたが勝手に補ってくれよ、という形で。これによって行
間を読む力・埋める力は培われるかもしれない。吾郎ちゃんの発言はこうい
った背景を考慮すれば、それほどおかしなものではないのかもしれない。
だが、自説の根拠を示さず他者の想像力にすべてを託すような共依存関係の
構築を目指すことは、少なくとも「映画批評家の仕事」(なのか?いや、ち
がうよな)としては失格ではないだろうか。
もし、具体的事例を挙げることが自身の引き出しのキャパ(教養)を超えて
いるならば、いっそ閉口したらどうだろうか。虚言は罪だし。いや、虚言は
誇張か。でも、思いつきの発言も、やはり罪だろう。
ついかっこいいこと言ってしまいたくなった心情は理解できるよ。うん。賢
く見えるし、博識にも見える。虚栄心は満たされるし、それに説得力も増し
そうだ。
歯切れのよいことを言ってなんぼの芸能人であるから(←偏見です)、中途
半端でどっちつかずなコメントなどできないことは承知である。
それに吾郎ちゃんに批評家と同じコメントは求めていないだろう。
それは承知だ。
だが、町山氏曰く、映画を評するものの役割とは、


「映画が面白かったとか、つまらなかったとか書いちゃいけないんですね。
それは人それぞれだから。映画評論ってのは画面をみただけじゃ見えない部
分をだしてあげること」


である。
町田さんが先日アップされたポッドキャスト(第55回)ではアンジェリー
ナ・ジョリー主演映画『ウォンテッド』を題材にして、ストーリーが『マトリ
ックス』と同じで、実は深いところで通底しているのが、邦画の『陸軍中野学
校』とドフトエフスキーの『悪霊』である、とその関係性(どーいった関係な
のかは、こちらを聴いてね→http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20080816
を看破されていた。


陸軍中野学校」は1966年製作の映画である。余程過去の作品を意欲的
に見ている人以外、名も聞いたことのない作品であると思う。そして、たと
え一見していたとしても、根底で繋がるところを見抜けるかは、また別の問
題である。
観客がまるで気づかない文脈で映画を捉えなおし、作品を紹介する。
これだよ、これ。吾郎ちゃん。
君がやるべき仕事は。


映画批評とは、本来そのような自分では見つけられないことを観客に差し出
すことではないのか。
個人的印象を根拠に映画を批評するだけなら映画批評家はいらない。
少なくとも、オレはいなくても困らない。
だって我々がいつもそこらでやっていることだから。わざわざ映画批評家
(ではない、ということでいいですね、もう)にご自身の体験をご説明いた
だく必要はない。その人のファンなら別かもしれないけど。


とはいえ、テレビのいち企画なんだよね。
そこにイチャモン付けるのは狭量というものかもしれない。
どうかゆるしてくれ。うん。怒るところじゃないよね。
人差し指を唇に添えてモノを語る尊大な態度は別にして、そう大げさに指弾
することはないかもしれない。うん。
ただ君のわけしり顔で行っている映画批評は映画批評家の仕事に対する冒涜
だと思うし、観客にバイアスをかける罪深い行為であるとの自覚はしておい
て頂きたい。
映画批評というものを映画をみたまんま語ればよく、その背景や根底にある
テーマなど思いついたことを適当に言えばいいものだと勘違いさせることに
は貢献しているだろうから。