読書→『脳のはたらきがわかる本』

おとなが買うにはちょっと恥ずかしい岩波ジュニア新書シリーズの一冊、
『脳のはたらきがわかる本』を読む(外見は大人っていうかおっさんだけど、
頭は子どもだから、わたしのような人間は購入することにためらいはないの
である)。
面白い。
穴だらけの知識が有機的に結合をしていくこの瞬間がたまらない。
以下、なるほど、そうなのか、おもしろいと思ったことを備忘録として記述
しておく。


・脳は「からだの中や外からの方法をあつめてメモリーし、同時に判断して
 意思決定し、それを体に実行させる役割をしている(…)重要なシステム
 なのです」。
・人が消費する全エネルギーの25%を脳が消費している。
・快情報は側坐核で感じる。麻薬やコカイン、アルコールなどの物質は最終
 的にここの部位を刺激する。
・「ワーキングメモリ」は前頭前野の機能である。これはOS(オペレーテ
 ィングシステム)ともいえ、通常「意識」と(電話番号を思い出そうとし
 たり、牛乳を冷蔵庫だそうとしたり…といった意味で)呼んでいるものに
 相当する。
・メモリーされるべき意味記憶エピソード記憶は狙苦闘用や前頭葉の皮質
 に入力されて、長期に渡り記憶される。
・REM(レム)睡眠のレムは、「Rapid Eye Movement」の略称で「速い
 目玉の動き」という意味であり、それは寝ているあいだの目の動きを表わ 
 している。で、このとき夢を見ているといわれている。
・「じつは医学的にいうと、運動神経とは筋肉に命令を出して収縮させるニ 
 ューロン(神経細胞)のこと」
・「ぼうこうの中に一五〇ミリリットルくらいたまると、まずしたくなりま
 す。(…)だいたいがまんできるのが五〇〇ミリリットルくらい、必至に 
 がまんが七〇〇〜八〇〇リットル。」(『脳のはたらきがわかる本』より)


以上、線を引っ張ったところを箇条書きにしてみた。
このような断片的な知識を羅列してもわたし以外に「それは面白いね」と相
づちを打って感動してくれる人はいないだろうな。やっぱり。
「何を勝手なこと言ってやがる」くらいの反発、もしくはスルー(こっちだ
ろうな)はあったとしても、どなたかの穴を埋めることには資するところが
ないだろうな。やっぱり。「備忘録」と言い訳してあるから、気にすること
もないかもしれないけど。


これはある意味(読書という行為が個人的なものであるから)しかたのない
ことである。だが、とうぜんこのような読み方は合理的ではない。だって何
が得られるか読み終わるまでまるでわかんないから。
速読・ビジネス系の本では「キミ、キミ〜。それだから成功できんのだよ」
と叱責・訂正されること請け合いの読書スタイルである。
「面白そうだから読む」という読書スタイルでは、効率的なインプット・ア
ウトプットはできない。
うん。それは理解している。


いまマルクスに関係する本を読んでいるのだが、新書からハードカバーのも
のまで「マルクス」というキーワードが記されていれば、手当たり次第に読
むことにしている。たとえその本に書かれていることが分かっても、分から
なくても、とにかく読む。それほどマルクスが言ってること(またはマルク
スの知見から発展させた著者たちの発言)が面白いのである。
そんな読み方だから、突然「で、結局マルクスってなにを言ったの?」とマ
ルクスの知見の体系的な説明を迫られたりした日には、脳は機能を停止して
しまう。体系的に読み込んでないから、どう出力していいのかわからない。
だから仕入れたばかりの新鮮な知識に瞬時にアクセスし、滔々と語るなどと
いうアクロバティックな芸当などとうぜん出来るはずもなく、恥をかく予感
(=100%)をひしひしと感じながら「それはね…であるから…」と私利
死滅なことをしどろもどろと説明をすることが精いっぱいであろう。たぶん
ね。経験的実感として、それくらいのことはわかる。


マルクスに関する知識がいつか(知識の)コップからはみ出るくらい集まれ
ばきっと上手に説明できるようになるだろう。
そしてそうすれば、「おぉ。それはすごい」と他者の知的好奇心をシゲキす
る発言ができるようになるだろう。
そもそもこのような濡れ手で栗を狙う読書スタイルのものに、上述のような
成果は期待できない。
そして人は、無目的にただ読む人(=じぶん)を合理的な人とはいわないだ
ろう。


合理的に読むならば、インプットとアウトプットを限りなくゼロに近づける
努力をするべきである。どのような課題・目的を立ててよいのか分からない
ならば、マルクスの知見をもって現代を読む、くらいの目的を立てたほうが
ずっと有意義である。だって何を収穫し、何の情報をスルーするか分かって
いるんだから、速いに決まってる。これは速読の基本中の基本である。得た
いものを明確にすること。速読が失敗に終わるのは、たいてい本の中の情報
をすべて持ち帰ろうとするからである。


昔、洞窟の中でモンスターを退治しながらアイテムを収集する『トルネコ
大冒険』という大変面白いゲームがあった。このゲームはよいアイテムを探
して奥へ奥へと入り込んでいき、気がついてみると体力は残り少なく、帰る
ための道具を失ってしまっていて、結局もとの世界に帰れずに朽ちてしまい、
持ち物も全てを失うという大変厳しいルールにもとづいて構成されていた
(記憶曖昧です。ツッコまないでね)。
速読の伝でいえば、欲しいものだけとったら帰るというプレイスタイルにし
ておけば、死ぬことはなかったのである。すべては強欲な私に責任があった。
しかしそれでも「ダンジョンをくまなく回り、もっと先に行けば良いもの
(が何かは知らない)が発見できるかもしれない」という好奇心・興味心に
は逆らえず、何度無駄死にしても奥へ奥へと突き進んでしまったのである。


たしかに合理主義は最短距離で目的達成するには向いているのかもしれない。
足りないもの、必要なものをリストアップしておいて、それを穴埋めするよ
うに進めていけばロスを限りなくゼロに近づけることができる。
そこには一切のムダがない(そんな人生はありえないだろうけど)。
しかし、必要なものばかりで構成された内的世界では、それ以外のものを認
識することも、またできないはずである。


わたしは車の車種にうとい。
いま私の目の前を通過した車が「スカイライン」であるのか、「フェラーリ
であるのか、「◯◯◯」(もう知らない)であるのか、他者に「おまえ大丈
夫?」と嘲笑されるくらいの簡単(なんでしょ?)な識別ができない。
なぜなら、私にとって車種がなんであるのかという問題は枝葉末節の事柄で、
ぶっちゃけていえばどうでもいいのである。
であるから、目の前を颯爽と走り去っていった車がたとえ人目をひくスポー
ツカーでも、予備情報を持っていない私の目には、「スカイライン」でも
フェラーリ」でもなく、「ただの車」でしかない。


人間の認識は所有している知識量に限界づけられている。
『脳のはたらきがわかる本』を読んで、ふんふんと上機嫌で頭を揺すりなが
ら線を引っ張ったセンテンスを読み返したとき、はたとそのことに気づいた
のである。
以上のような事情から、ムダ読みと世間で唾棄される非合理的な読書法をき
れいさっぱりと捨てさることが私にはとてもできないのである(あれ、なん
でこんな話に…)。