「映画を見る力」

 
どうしたら、もっとよく映画がみられるのか?
優れた批評文を読めば読むほど打ち拉がれる身としては、悩ましい問題である。
ただ、ひとつだけ分かっていることもある。
それはただ映画を見るだけでは十分ではない、ということ。
なぜって?
へっぽこ映画評論家の評論文を読めば、それはよくわかる。
とりわけ自称映画評論家、前田有一氏の批評文は最高のテキストである。
前田氏の批評文は、価値判断がたっぷり入っていて、読み解くだけの知識、
力がない場合は、代名詞や抽象的な言葉を多用してはぐらかすという裏技が
使われる。
 

たとえば、前田氏に『ウォンテッド』の魅力を語らせるとこうなる。
http://movie.maeda-y.com/

車をまるで自転車のように自在にスピン、ジャンプさせるチェイスシーン
も、作り手の想像力の豊かさに感心してしまう出来ばえ。跳ぶわはねるわの
変幻自在なドライビングテクニックに、観客は「ありえねー」と爆笑&大興
奮だ。
(『前田有一の超映画批評』)


これひとつ取ってみてもおかしいのがわかる。
「ありえねー」ってのは彼の主観的な感想であって、みんなはわからない。
まぁ、こちらも大人であるから、百歩譲ってそこまでは認めてもいいけど、
それにしても「ありえねー」ってのは批評文には必要ないでしょ。
われわれが知りたいのは、あなたの私的な感想ではなく、映画をふつーに
見ただけでは見えてこない不可視の部分であり、「この映画面白そう」とい
う好奇心を引き出してくれる文章なのだよ。


ここで終わるともったいないので、もう少し前田氏の暴走を追ってみる。

この映画はR-15指定で、イギリスでは暴力的なポスターにクレームがつい
たそうだが、普通の大人はむしろ笑いながらみるタイプの作品だ。どうも何
かがズレており、そのズレを楽しむという感じ。ネタバレになるので言えな
いが、後半の真相解明周辺などは突っ込みどころ満載である。苦笑しながら
楽しむ、成熟したカップル向けのトンデモ映画といったところだろう。
(同上)


氏はここは「映画の見方」のレッスンをはじめられた。
なるほど。「ズレ」を楽しめばいいのですか。了解です。
でも、その「ズレ」ってなんですか。
もうひとつ、「トンデモ映画」って、どういう映画のことを指すんですか。
よく意味がわからないんですが。
あなたはよく「何か」や「トンデモ」、「ズレ」といった言葉で映画を論
じますけど、それって素人が言語化しづらいものですよね。その言葉にしづ
らいところを言葉にして示すのがあなたの仕事なのであって、はぐらかして
「いっちょあがり」とするのではあなたの存在意義がないじゃないですか。
だいたい、なにが「ズレ」てるのか、鑑賞後でも理解できません。
意味不明です。


酷評しすぎて申し訳ない。が、ここまで言ったらもう少しいいよね。
曖昧なコメントをされていた『ハンコック』についても転載しておく。

ハンコックはよくあるアメコミ映画ではなく、映画専用の脚本によるオリ
ジナルストーリーだ。そこが最大のポイントで、この作品は相当色濃く現代
の世相を表している。


…さすがですね、みなさん。ご名答です。
ここまで拙文を読んでいただいた諸兄のご賢察どおり、前田氏が述べている
「最大のポイント」や「世相」についてまるで指摘されない。結局、「あ、
これってなんか今って時代を象徴してるぽいよな」と素人でも思いつくこと
をそのまま「映画批評文」として書いているにすぎない。
この杜撰(ずさん)な仕事ぶりを探し出すまでにかかった時間は1、2分。
前田有一氏が運営(?)している『超映画批評』に飛べば簡単に発見できる。
っていうか、散見してるんですよ。そこらじゅうに。彼の批評スタンスは曖
昧にがモットーだから当然といえば当然ですけど。
 結局、彼のも映画をみたまんまかたる印象批評の域から出るものではない。


たしかに、映画批評家町山智浩さんのような批評文を書こうと思ったら、と
んでもない努力が要求される。
<映画の見方>がわかる本』の「2001年宇宙の旅」に関する論考をお読
みいただければ瞬時に了解いただけると思う。あの書物は映画批評文という
ものに対するものの見方をがらりと一変させる、たいへん優れた論文だった
(あくまで個人的に、ですが)。それまで「映画なんか感覚だよ。感覚。
どう感じるかが問題であって、描かれてることなんかどうでもいいんだよ」
と映画をただ見るだけに食傷し始めていた傲慢で愚かなワタシは、それによ
って蒙を啓かれた。(だって、テーマがツァラトゥストラだっていうんだか
ら。ふつーに見ただけじゃ分かるわけない。詳細は本にてご確認ください)。
映画評論文の意義はこんなところにもあると思う。
すなわち、いま自分が見ている視座、視点、枠組みが常識であり、それが世
界を見る眼であるといった態度は、知的に怠け者であり、不十分であり、も
っといえば傲慢というものであって、実際はにはとても奥が深いものなのだ
と読者(鑑賞者)を反省、痛覚させるという点において。うん。たぶんね。
 

話をもとにもどそう。
つまり町山さんのような批評文を書くには、ただ見て、自前の知識を持ち寄
って書けばよい、というものでは書けないということであると思う。
その手順で書けば知識が不足している分野に関してはスルーせざるをえない
し、その不足にも気づけないんだから画期的な読者を唸らせる批評文が書け
ないのは必然的な帰結である。


では、どうすればよいのか?
このたび町山さんは自身のブログで、だらしない映画評論家に檄を飛ばしな
がら、批評眼を高める方法を開示されている。
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20080920

評論家といいながら、映画観ただけの印象批評ばかり垂れ流して、自分で
資料を調べようともしないし、過去の関連作品を探して観ようともしない、
作り手に直接会って質問しようともしない、撮影や編集の現場は経験したこ
ともない、カメラの仕組みも知らない、シナリオやコンテも勉強したことが
ない、映画は観るが、歴史や政治や経済のことはこれっぽちも知らない、安
楽椅子ライターが山ほどいる。


(中略)


「評論」家といっても、資料の読み込みと調査と考察と仮説と検証と独自の
結論が必要な「論文」など一回も書いたこともなく、一生に一度も後世にも
読み継がれる本を著すこともなく、雑誌にクズみたいな感想をちまちま書き
散らして小銭を稼いで、誰にも惜しまれず、誰にも影響を与えることなく死
んでいく。


その人生に意味はあるのか?

何のために生まれてきたんだ?


(中略)


基礎もできてないのにいくら数見たって意味ないんだ

過去の大事な作品を観て、それについて考えてから、それについて書かれた
文献を読んで自分の映画を観る目を切磋琢磨しろ。

誰でも最初は、独りよがりな解釈をしたりするものなのだが、優れた批評や
作り手自身の言葉とつきあわせて自分の批評を添削するうちに、だんだんと
映画の見方が上達していくものだ。

それから、誰にもマネできない独自のテーマ、独自の視点、独自のタッチを
確立しなければならない。


(中略)


何もわからない人間がいくら一人で考えたって、感想以上のものは絶対に出
てこないんだ

そんな感想に商品としての価値があるか?

だって、感想なんかガキだって持てるんだぜ!


(自注:もし引用しすぎということで、コピーライトにひっかかるようでし
たらコメントいただければと思います。すぐに削除いたします。)

なるほど。
厳しいご指摘だが、たぶんその通りだろう。
これを道標として活用すれば、映画を見る眼は徐々に養われ、評論力もつき
そうなものである。やっぱり勉強は大事だよね。
しかし、自称映画評論家、それに映画ライターの人たちは、このご提案を
きっと快く思わないだろう。むしろきっと苛立ってさえいるんではないだろ
うか。余分なこといいやがって、と。
だが、われわれ(だよね?)が読みたいのは、不可視な部分を明示化した
文章である。ただの感想文なら、yahooのレビューや映画関連サイトで十分
すぎるほどのデータを無料で手に入れられる。いまは消費者が消費すると同
時に生産者にもなる生産消費者(@アルビン・トフラー)時代である。映画
をみたら(消費)、感想はブログだったりyaooのレビューだったりにアップ
される(生産)。ただの映画感想文ならあなたたちのような人にご登場いた
だく必要はないわけですよ。なんども糾弾してしまって恐縮ですけど。
 

というわけで、自称映画評論家のみなさん。
市場淘汰されないためにもぜひ見習ってほしい。
オレももうちょっと精進するからさ。
あなたたちにはまるで関係ない宣言ですけど。