世界を言葉で切りとる→『ことばと文化』

1週間ほど前のエントリーですっかり味をしめてしまった。
どうも、癖になりそう。
前回書いたのは、本から適当な文章をコピペしてコメントをつけただけ。
たったそれだけ。


こうして文章の構造を書き出してみると、他のサイトやブログも構造的には一緒かもしれ
ない、などと思う。
外部から与えられた(もしくは入手してきた)情報に対して、自らの解釈を与える。結局
やっていることはみんな同じだ。だがそれぞれのサイトで語られることはまったく違う。
違いはなんなのか。それは情報そのものは同じであっても、その情報を調理する仕方によ
る。というと、とっても当たり前のことを言っているに過ぎないが、詰めて考えてみると
面白いかもしれないという疑問を持ったまま、とりあえずこの問いは放置。


さて、本日は言語学の『ことばと文化』の感想文である。
この本は、「ことば」に関して考えを巡らしたことのある方には、きっと面白いとおもわ
れるのではないかと思う。
以下に面白い指摘、知見を転載。


《ことばがものをあらしめるということは、世界の断片を、私たちが、ものとか性質とし
て認識できるものは、ことばによってであり、ことばがなければ、犬も猫も区別できない
筈だというのである。》(p31)


《ことばは、私達が素材としての世界を整理して把握する時に、どの部分、どの性質に認
識する焦点を置くべきかを決定するしかけに他ならない》(p31)


《ことばというものは、混沌とした、連続的で切れ目のない素材の世界に、人間の見地か
ら、人間にとって有意義と思われる仕方で、虚構の分節を与え、そして分類する働きを担
っている。言語とは絶えず生成し、常に流動している世界を、あたかも整然と区別された、
ものやことの集合であるかのような姿の下に、人間に提示してみせる虚構性を本質的にも
っているのである。》(p34)


《人間は生のあるがままの素材の世界と、直接ふれることはできない。素材の世界とは、
混沌とでも、カオスとでもいうべき、それ自体は無意味な世界であって、これに秩序を与
え、人間の手におえるような、物体、性質、運動などに仕立てる役目を、ことばがはたし
ていると考えざるを得ない。》(p40)


まったく面白いことばかり書かれてる。


本書の中で特段面白いと思ったのは、形容詞の章。
そこでなされていた主張を理解することに、わたしが最近体験した出来事を引き合いに出
すこと助けになるかもしれないので、ちょこっと書いてみたいとおもう。


10月の上旬に中学時代からの友人であるKくんが結婚した。
Kくんはこの結婚を機に家賃4万円の安アパートから7万円の新居に移ることにし、この
度、新居に招かれることになった。
ここ浜松では7万も払えば一戸建ての半分(って何ていうんだろう)の住宅に住める。東
京で7万円だしてもワンルームがせいぜいってところだろう。まったくもってよい土地で
ある。


で、先日彼の新居を訪問してきたのだが、内装にビックリした。すべての家具が新しいく
取り揃えられ、部屋の面積が以前の2、3倍になっている。とにかく広い。それにTVが
32インチになってる。ばかデカく感じる。倹約家の彼は、同年代の友人より高い給料を
取るようになってからも、14インチのTVを高校時代から使いつづけている(というこ
とは、かれこれ10年近くになる)。そんなKくんの自宅の32インチの大画面液晶テレ
ビがあるんだから、不思議な違和感が拭えないのも無理はないようにおもう。
で、以上のような背景があったものだから、リビングに足を踏み入れるなり、目の前に広
がる空間やモノをみて「広いね」とか「綺麗だね」とか「TVデカいね」などといった言葉
で知らぬうちに評していた。ほとんど無意識うちに。そして、このような無意識的な発言
は、日常会話における常だったりする。


だが、一考してみれば、その「広い」や「綺麗」といった形容詞そのものは、個人的主観
によるものだと気づかざるを得ない。家具屋の息子にいわせれば、Kくん夫妻が生活を営
んでいるその部屋は「狭く」「ダサい」ものに映るかもしれない。物事を評することは、
その発話者に依拠する。ゆえに、わたしの口から発せられた言葉は、対象そのものの性質
についての客観的観点から下された正しい評価(というものがあれば、だが)ではない。
そもそも発話者が口にするなんらかの言葉(=主張)は、個人的なバイアスから原理的に
逃れようがないのだから仕方がない。


わたしが「TVデカいね」と言ったのはKくんが小さなTVを使い続けていたことを学生時
代から見続けてきたからであり、「広いね」や「綺麗だね」は、彼が暮らしていた安アパ
ート(意識にもあがらないイメージ)に上がったときの印象と比較しているから発するこ
とが可能となった言葉である。もしそれらの印象によるデータがなければ、比較対象をそ
の言葉のうちから潜在的に発話者に要求してくる形容詞の性質上、「綺麗だね」などと物
事を形容することなどできない。「綺麗な人」を知らない人に、「シャーリーズ・セロン
ってめっちゃ綺麗だよな」ということが言えないことと同じように(そんな人まずいない
だろうけど)。


では、われわれが無意識的に対象を形容するために採用している基準とは何なのか。
著者は「種の基準」、「比較基準」、「期待基準」、「適格基準」との4つの基準がある
と説明する(ちなみに、これを明らかにしたのはスイスの言語学者らしい)。
これにそれぞれに言及すると、紙数がまた増えていってしまうので、ここでは割愛する。
それにわたしがいま論じたいのは、そこにはない。


それまでわたしは何かを形容するには、漠然とモノとモノとを比較すればOKだと思って
いた。東京タワーを「デカい」というのには、近所にあるビルや建物を指差していえばい
い、というような感じで。
だが、その比較基準は厳密にはもっと細分化されており、近所にあるビルや建物は「種の
基準」によって、久しぶりにあった旧友を「おい、ちょっと老けたな」とおもうのは、
「期待基準」というカテゴリーに帰属しているものによって判断している(抽象的すぎて
わからないかもしれません。ごめんなさい)。なにかを比較するにも、ただ比較するとい
うだけではなく、その比較するものを、もっと細かく分けられることを知り、そこに関し
て思考を停止させていたわたしはブルっと震えたのである(なんらかの思想を保有するこ
とは、思考力を低下させることに直結しているのかもしれない)。


そして、こうした4つの基準を把握理解し、次の瞬間からその言葉を自由に運用(コミュ
ニケーションや思考ツールなどに利用)することができるようになるのも、「混沌とした、
連続的で切れ目のない素材の世界に、人間の見地から、人間にとって有意義と思われる仕
方で、虚構の分節を与え、そして分類する働きを担っている」言葉によってはじめて成立
することができるのだと、(さきほど引用した言葉を)思い知って、またふたたびブルっ
と身震いしたのである。


言語学って面白い。


ことばと文化 (岩波新書)

ことばと文化 (岩波新書)