哲学が宗教になるとき

 本日も備忘録です。
まず、宗教とは何か、哲学とは何か、から。

「宗教」が人生や世界についての深遠な問いに対して究極の「答え」を示し、それを
「信じる」ことを要求するのに対し、「哲学」はむしろ人々が常識として無条件に信じて
いるようなことを疑問に付し、どこまでも「問い」の可能性を開くことを特徴とする。
もっと簡単に言うと、信じようとする「宗教」に対して、疑おうとする「哲学」という対
比になるだろう。(『<宗教化>する現代思想』仲村昌樹 p30)


 宗教は人に生きる意味を与えてくれる優れものではあるが、「答え」を絶対視すると原
理主義者になっちゃう点がヤバい。これが、やっかいなのはご承知のとおり。分かんない
やつ、信じないヤツらは敵だ、排除せよ的な他者を排斥する論理が生じやすい(とおもう)。
 とすると、すべてを懐疑の対象とする哲学が優れているのか。しかし、このような二元
論的発想(どちらがよくて、もう一方はダメ)はあまり意味がないのかもしれない。とい
うのも、哲学者のご託宣をありがたって自らにインストールして、仕入れた知識を「おれ、
すごいだろ」的知的優越感に浸りながら開陳するのは、聖典をインストールして教えを説
く「宗教」と遜色ないから。ここにある違いは、インストールしている「もの」の違いで
しかない。どちらが真理をいっているのかなんて誰にもわからないんだから、偉いも悪い
も正解も間違いもない。
 しかし、それはともかく、なぜ哲学は宗教化してしまうのか。
その理由は、こうである。

プラトン(……)によってテクスト化された「ソクラテスの対話篇」を読む者は、どう
してもーそれが主人公であるソクラテス自身、あるいは著者プラトンの意図であるか否か
は別としてーソクラテスが”偉大な完成した哲学者”として描かれているという印象を受
けてしまう。デカルトの方法的懐疑の記録として書かれている『方法序説』(一六三七)
を読む者も、著者デカルトは近代哲学を創始した"偉大な完成した哲学者"であるという先
入観をもって読んでしまう。"偉大な完成した哲学者"であると思っていなかったら、そも
そもテクストを読みはしないだろう。(同上、p34)


 ようするに絶対不変の答えを求めようとする、学ぶものの態度に原因がある、と。
たしかに古典を読む理由のひとつは、そして哲学書を読むという行為にもとめるものの大
部分が、ありがたいお言葉(答え)を知るためである。その為によむ。あの人はなんとい
っているのか、を知るために。だが、それは前述したように「宗教」である。それじゃあ
まりよくない。
 では、どうすればいいのか。

本当のすぐれた哲学者、あるいは、哲学的テクストのすぐれた読者であれば、「完結した
ものとして書かれたテクスト」の外観に囚われることなく、そのテクストの「終わったと
ころ=結論」から、すぐに新たな「問い」を立てることだろうが、そうでない者は、テク
ストの外観によって幻惑されてしまう。自らが哲学者になろうとしていない読者の中に
は、”偉大な完成した哲学者”の信者になってしまう者が少なからずいる。特定の”偉大な
哲学者の教え”を絶対視するファン・クラブは存在自体が自己矛盾している。(同上、p35)


 こうしなきゃいかんよね。


 2008/11/1 補筆

「なぜ哲学が宗教化していくのか」に関して説明が不足しているとおもったので。


 近代科学などの進化によって神が否定され、われわれを導いてくれる「正しい答え」を
失ってしまった。「答え」を失ってしまった私たちは、「神」以外のなにかに「正しい答
え」を求めたい、と思う。というのも、答えがあるほうが考えずにすむし、なにより安心。
答えを忠実に守り、答えが指し示す人生を生きればいいんだから(原理主義者だよな、こ
れじゃあ)。で、その答えを教えてくれると期待できる対象が、世界をすっかりまるごと
理解することを本質とする哲学だと気づいてしまった(そうなの?)。そして、オシャカ
になってしまった「神」から、「正しい答え」を教えれくれる哲学に鞍替えして、それを
信仰することになりました、(=宗教へと化しました)おしまい。
 と、そんなところなのではないだろうか。



〈宗教化〉する現代思想 (光文社新書)

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