メディアとお笑いと責任

 朝起きて、平川克美さんのblogを拝読する。
ずいぶんまえから嫌気がさしている「お笑い」番組に関して、するどい考察されている。
そうそう、こういった話が聴きたかった。
のどにずっとひっかかって小骨がとれたような解放感を味わい、溜飲を下げる。
ふぅ。
 昨今の(というほどTVをみていないのだが)お笑いは、日常的に生じる些末な出来事
にフォーカスして、拡大し、ネタとして披露される。
爆笑レッドカーペットのようなお笑い番組は、それを扱っている。
「そういうことって、あるよね」と多数の人間が同意されるであろう出来事を、自身の体
験や観察データをもとにして、つくりだしている(たぶん)。
 キーは差異である。
差異、つまりズレに関して、われわれは笑う。
けれど、ときどき笑えないものが混じってる。
 それは集団的な価値観からわずかに逸脱しているという理由で笑いの対象される人々を
を笑うネタである。あの光景は集団的暴力に似ている。
 そしてあの光景を見ていると、わたしはぞっとしてしまう。
     
   

    お笑い番組では、ナンセンスや、くすぐりや、カン違いや、行き違い
    が誘い出す痙攣的な笑いを脈絡なくつなげる。 
    (中略)
    視聴者の日常感覚を揺さぶり、
    微細な差異を拡大して差別的な笑いを作り出す。
    身体的に感覚できるところまでの、微細な差別感情をくすぐって
    集団的、共犯的な笑いを誘う。
   
    笑えない奴は、この微細な感覚に鈍感な奴であり
    空気の読めない奴であるといった雰囲気が支配的な場が形成される。
    標的はいつも、空気を読めないいけてない男であり、女である。
    笑う側には集団的な価値観から逸脱しているという
    微細な価値観の壁がある。
     
    笑いはいつでも、この構図をどこかに持っている。
    ただ、笑われる側が権力者や強者である場合もあれば、
    弱者である場合もある。
    前者なら笑いは風刺になり、批判になるが、
    後者なら集団的なリンチに近いものになる。
    (http://plaza.rakuten.co.jp/hirakawadesu/diary/200811050000/

 TVは、大衆に対して大変な影響力をもっている。
どの番組が火付け役なのかは知らないが、バナナがダイエットに効くという減量効果説が
喧伝されると、スーパーからバナナが一斉に消えてしまった、ということがあった。
バナナダイエットが有効なのかどうか、わたしにはわからない。しかし、それはさほど重
要なことではないのかもしれない。
 というのは、われわれ視聴者が欲しているのは「食べればやせる、かもしれない」とい
う減量の希望がわたしの中に灯されること、そして、退屈な日常を変化させられるかもし
れないという可能性を持つことができるかどうか、といことであり、科学的事実ではない
から(いや、もちろんそれも大切だけど)。
メディアが流すダイエット説を額面通りに純粋に信じている人間はもういない。


 しかしTVは、多数の人々に影響力を与える媒体ではある。
そして、その影響力はもちろん消費行動だけに限らない。
お笑い番組で芸人がネタにした日常的なネタで「このシュチュエーションって、ほんとに
笑ってもいいのかな?」、といままで留保していた問題に関してまで、「いいんだよ、そ
れって、笑っても」と肯定する勇気を与えてしまう効果まである(のではないか)。


 もちろん芸人たちにこれらの責任のすべてがあるとは言わないし言えない。
彼らの仕事は客(観客や視聴者やTV関係者)を喜ばせ、笑わせることであるし、変な刷
り込みを植え付けることが目的ではないはずであるから。もし図らずもそのような効果
が生じてしまったとするなら、それはTVという媒体の力によるところが大きいのだと思う
(どうして、に答えることは困難なのだが)。
それに、仮に集団的価値観からの逸脱者を笑うことに勇気を与えてくれる効果があったと
しても、受け取った人間がじっさいに行動に移したなら、その責任の一端は当然個人にも
求められるべきものだからである。
「「おい、おまえちょっとあそこにある雑誌盗んでこいよ」と先輩に命令され窃盗しまし
た」と遁辞を口にしても、警察は勘弁してはくれない。
他者による影響力が当事者にどれほどの影響を与えたのかは、ほとんど考慮してくれない
のである(催眠術なら別だろうけど)。
 

 以上の理由から、すべての責任を芸人(あるいはメディア)に帰すのは無茶である。
 しかし、かといって、自らがメディアという多数の人間に多大な影響をあたえる場にお
いて仕事をしているという認識を失ってもいいことにはならない(その影響力はご承知の
はずである。「◯◯さんに憧れて芸人になりました」なんてのは象徴的ですらある)。
そして、笑い(仕事)を得るために、笑う対象について慮ることなく、なに言っても(や
っても)責任がないのかといえば、答えはわかりきったものになる。
 「仕事だと言えば、何でも許されるわけではない」(@クール・ハンド・ルーク)ので
ある。
警察はつかまえにこないけどね。