ニーチェ

 問うてはならないことを問うこと。
哲学者ニーチェの魅力はそこにある気がする。
 われわれが、考えてみようと思ったとき「いや、しかし、これについて考えるのはモラ
ルに反するよなぁ」と思考に足かせをかけるものが存在する。
たとえば殺人の事件の動機。
なぜ犯人は人を殺したのか、その背景や動機を想像することはできる。だが、犯人に同情
的な、つまり犯罪をしてしまった側を擁護するような動機に関して想像力をおよばすのに
気が引ける、というより、遺族などのことを思うと、不謹慎な気がしてしまう。
考える気力はそこでくじかれてしまう。
 だが、ニーチェはあえてその禁断の領域に踏み込む。

 ニーチェのなかには、およそ人間社会の構成原理そのものと両立しがたいような面さえ
ある。彼は、文字通りの意味で反社会的な(=世の中を悪くする)思想家なのである。そ
れにもかかわらず、いやそれだからこそ、ニーチェはすばらしい。他の誰からも決して効
けない真実の声がそこには確実にある。もしニーチェという人がいなかったら、人類史に
おいて誰も気づけなかったーいや誰もがうすうす気づいてはいても誰もはっきりと語るこ
とができなかったー特別の種類の心理が、そこにははっきりと語られている。
だが、その真理は恐ろしい。(『これがニーチェだ』p8)
(中略)
 第一に、世の中のすべての言説ー道徳哲学や倫理学を含めてーは道徳性とそれ自体を問
題としてとうことそのものを禁じている。この奇妙な現実を、奇妙であると感じてよいの
だとはっきり言ってくれたのは、ニーチェだけであった。(同上、p24-25)


 問うてはならない問い。
それは、社会の構成員としていきてきたわれわれのあたまにいつのまにか知らぬ間にイン
プットされているものである。
親から、教師から、大人から、それを学ぶ。
それがこの世界を生きるうえでの「ルール」なんだと。
これに反感をおぼえる日もよくある。映画や文学なんかじゃ、よく描かれる。
だがここから自由になることはいうまでもなく難しい。


 しかし、そもそも、なぜわれわれは道徳を重んじるのか。
社会のため?
すみよい環境をつくるため?
みんなが気持ちよく暮らせる世界のため?
(笑)
まさかね。
もちろんそれもある。
が、第一義的には自らがよりよい生を享受するためだろう。
ニーチェは都合良く解釈するわれわれの弱さを喝破してみせる。

「人が道徳に服従するのは道徳的であるからではない。ー道徳への服従は君主への服従
同じく、奴隷根性からでも、虚栄心からでも、利己心からでも、断念からでも、狂信から
でも(中略)ありうる。それ自体では、それらはなんら道徳的なことではない」
(同上、p25)


 ぞくりとする一文である。
ニーチェを読んでいると、欺瞞的で偽善的な自分に否が応でもきづかされる。対峙させら
れる。
 やなことだ。
できるならいい人だという自己認識でいたい。
たとえ欺瞞だとしても、だ。
けど、ニーチェはそれを許してくれない。
 しかし、また、このような世間や社会によって封殺されて、問うことを禁じられている
疑問を素直に問うこと、抱くことに対してそれを考えてもいいことなのだと容認してくれ
る希有な存在であり、希望的存在でもある。


 なぜ人を殺してはいけないのか。これまでその問いに対して出された答えはすべて嘘で
ある。道徳哲学者や倫理学者は、こぞってまことしやかな嘘を語ってきた。ほんとうの答
えは、はっきりしている。「重罰になる可能性をも考慮にいれて、どうしても殺したけれ
ば、やむをえない」ーだれも公共の場で口にしないとはいえ、これがほんとうの答えであ
る。だが、ある意味では、これは、誰もが知っている自明な心理にすぎないのではあるま
いか。ニーチェはこの自明の心理をあえて語ったのであろうか。そうではない。彼は、そ
れ以上のことを語ったのである。
 世の中が面白くなく、どうしても生きる喜びが得られなかった人が、あるとき人を殺す
ことによって、ただ一度だけ生の喜びを感じたとする。それはよいことだろうか。それは
よいことだ、と考える人はまずいない。あたりまえだ。殺される方の身になってみろ、と
誰もが考える。そんなことでころされてしまってはかなわないではないか。
 だが、ほんとうに、最終的・究極的に、殺される方の身になってみるべきなのだろう
か。自分のその喜びの方に価値を認める可能性はありえないのか。このように問う人はま
ずいない。だが、ニーチェはそれを問い、究極的には、肯定的な答えを出したのだと思
う。だからニーチェは「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、
やむをえない」と言ったのではない。そこに相互性の原理を介入させる必要はないし、究
極的には、介入させてはならないのだ。そうニーチェはかんがえたのだと思う。
(同上、p28)


 はっきりいって、常識を逸している、と思う。
殺人を肯定するなんて、常識では考えられない。
すくなくとも、われわれが知ってる道徳には思いっきり反する。
しかし、だからこそ、このような問いを肯定するニーチェに救われる、ということもある
ようにおもう。


 これは、世の中で確固たる地位を持ち、そこで問題なく生きている多くの人々には決し
て–少なくとも公的には–受けいることができない見解であるかもしれない。しかし、それ
でもこの見解には究極的な正しさがあるのではないだろうか。「正しい」という語のある
特別の意味において、それは決定的に正しいのではあるまいか、少なくとも私にはそう感
じられるのである。(同上、p29)


これがニーチェだ (講談社現代新書)

これがニーチェだ (講談社現代新書)