村上春樹のことば その1

 大好きな村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』を再読中。
「ここはメモしておけよ」と自分が自分にいいきかせるので、ここに記しておくことにす
る。


 交通事故で亡くなった母親の付き人、ディック・ノースについて「とてつもない馬鹿ょ、
あれは」と先日評したことを後悔する美少女ユキに、友人の僕は、それは「口にだしては
いけないんだ」とユキにいう。

「僕の言い方はきつすぎるかもしれない。でも僕は他の人間にはともかく、君にだけはそ
ういうくだらない考え方をしてほしくないんだ。ねえ、いいかい、ある種の物事というの
は口にだしてはいけないんだ。口に出したらそれはそこで終わってしまうんだ。身につか
ない。君はディック・ノースに対して後悔する。そして後悔していると言う。本当にして
いるんだろうと思う。でももし僕がディック・ノースだったら、僕は君にそんな風に簡単
に後悔なんかしてほしくない。口に出して『酷いことをした』なんて他人に言ってほしく
ないと思う。それは礼儀の問題であり、節度の問題なんだ。君はそれを学ぶべきだ」
(『ダンス・ダンス・ダンス』下巻、237−238頁)


「彼にはすまないことをしたと思っている」というような謝罪をすることは、自らの汚点
を公に自己弁護しアピールしていることがおおく(必ずしも公言する必要はない)、また
罪悪感を軽減させるという利己的な欲望を満たすためという形をとりやすい。


 もうひとつ、資本主義の特徴について。

国際宅急便、と僕は思った。東京で注文してホノルルで女と寝る。システマティックだ。
手際が良いし、ソフィスティケートされている。汚らしくない。ビジネスライクだ。どん
ないかがわしいものでもあるポイントを越えると単純な善悪の尺度がきかなくなってしま
う。そこにそれ独自の独立した幻想が生じるからだ。そして一度幻想が生じると、それは
純粋は商品として機能しはじめる。高度資本主義はあらゆる隙間から商品を掘りおこす。
幻想、それがキイ・ワードだ。
(同上、179頁)


「幻想、それがキイ・ワードだ」
 まったく、そのとおりだ。
ぼくらはモノそれ自体ではなく、モノの背後にみる幻想にお金を支払っているともいえる。
時計としては1000円の時計も100万円の時計も、使い勝手のうちでは差異はない。
現在の時刻、たとえば「1時15分」という時間を知るには、どちらの時計でもよい。
過不足なく、正確な時刻を知る事ができる。
 だがしかし、両者にはあきらかに違いがある、とぼくらは思う。
そこに違いが生まれるのだとしたら、それはモノそれ自体の背後に「幻想」をみる、ぼくら
のモノの見方によってであり、また観念において、である。


ダンス・ダンス・ダンス(下) (講談社文庫)

ダンス・ダンス・ダンス(下) (講談社文庫)