Myマスター

無知で傲慢だったものが、ある日、まったく手も足も届かない「知性」を目の当たりにしたとき、がくっと膝を折って地面に手をつくことが、人生にはある。


その人物は超越者なんかじゃない。下ネタ好きでときどきキレる説教好きのおじさんに、あるいは映るかもしれない。
しかし、私にとって「多くの謎を内包した小宇宙」にしか見えないその人物は、子どもで
ある今の状態を恥ずかしいものであると思わせ、「大人になりたい」という向上欲に強くドライブをかけることになる。


私にはその人が「私の理解を絶する人」にしか見えない、という幸福な錯覚がそれを可能
にする。そのような欲望を担保し続けることができるのは、私が「私を越えるもの」として当の人物を想定し、内面化しているときだけである。

私たちは「私を越えるもの」を仮定することによってしか成長することができない。
(…)
子どもは「子どもには見えないものが見えている人、子どもには理解できない理路がわかっている人」を想定しない限り、子どものレベルから抜け出すことができない。
人間のすべての知性はそういう構造になっている。
「人間の知性では理解できないことを理解できる知性」(ラカンはそれを「知っていると想定された主体」sujet supposé savoirと呼んだ)を想定することなしに、人間の知性はその次数を繰り上げることができない。(内田樹の研究室)