イデアとしての村上春樹

走ることについて語るときに僕の語ること

走ることについて語るときに僕の語ること

 ただこれだけはかなり自信をもって断言できる。「よし、今回はうまく走れた」という
感覚を取り戻せるまで、ぼくはこれからもめげることなく、せっせとフルマラソンを走り
続けるだろう、ということだ。身体が僕に許す限り、たとえよぼよぼになっても、たとえ
まわりの人々に「村上さん、そろそろ走るの止めた方がいいんじゃないですか。もう歳だし」
と忠告されても、おそらく僕はかまわずに走り続けることだろう。
たとえタイムがもっと落ちていっても、僕はとにかくフル・マラソンを完走するという
目標に向かって、これまでと同じような―ときにはこれまで以上の―努力を続けて行くに
違いない。そう、誰がなんと言おうと、それが僕の生まれつきの性格なのだ。サソリが刺すように、
蝉が樹木にしがみつくように。鮭が生まれた皮に戻ってくるように、カモの夫婦が互いを求め合うように。
(中略)
ある日突然、僕は好きで小説を書き始めた。そしてある日突然好きで道路を走り始めた。
何によらずただ好きなことを、自分のやりたいようにやって生きてきた。
たとえ人に止められても、悪し様に避難されても、自分のやり方を変更することはなかった。
そんな人間が、いったい誰に向かって何を要求することができるだろ?
 僕は空を見上げる。そこには親切心の片鱗のようなものが見えるだろうか?いや、見え
ない。太平洋の上にぽっかりと浮かんだ、無頓着な夏雲が見えるだけだ。それは僕に何も告
げてはくれない。雲はいつも無口だ。ぼくは空を見上げたりするべきではないのだろう。
視線を向けなくてはならないのは、おそらく自らの内側なのだ。僕は自分の内側に目を向け
てみる。深い井戸の底をのぞきこむみたいに。そこに親切心が見えるだろうか?いや、見え
ない。そこに見えるのは、いつもながらの僕の性格でしかない。個人的で、頑固で、協調性
を欠き、しばしば身勝手で、それでも自らを常に疑い、苦しいことがあってもそこになんとか
おかしみをーあるいはおかしみに似たものをー見いだそうとする、僕のネイチャーである。
古いボストンバックのようにそれを提げて、僕は長い道のりを歩んできたのだ。気に入って
選んだというわけではない。中身のわりに重すぎるし、見かけもぱっとしない。
ところどころにほつれも見える。それ以外に運ぶべきものもなかったから仕方なく運んできた
だけだ。しかしそれなりに愛着のようなものもある。もちろん。(p202-205)