とりあえず「どっちでもいい」はやめよう→『生きる技術は名作に学べ』

『生きる技術は名作に学べ』という本を読んでる。


生きる技術は名作に学べ (ソフトバンク新書)

生きる技術は名作に学べ (ソフトバンク新書)


これは空中キャンプという映画や小説などの批評をされているブログ運営者の伊藤聡さん
によって書かれた文学論である。
その伊藤さんによって紹介されている古典十冊のなかにはカミュの『異邦人』があり、読
んでいて新鮮にひびく言葉があった。
「信用のならない語り手」、という一文がそれである。


この世におぎゃーと生まれおちて以来、小説というものをほとんど読んでこなかったので
あまりよくわからないのだけど、そんなぼくでも小説に絶対に登場してくる人物だけは知
ってる。
それは「語り手」である。
この語り手がいないことには、僕らは幾重にも重ねられ、強力なノリかなんかで張り付け
られ、本という名前を頂戴しているものの中に閉じ込められている物語というものをを知
ることができない。


その本の中身を紹介してくれるのが「語り手」である。
たいていそれは一人称であることが多い(つまり「僕」とか「私」。ぼくが読んできた小
説ではそうだった)。
読者はその「僕」なり「私」なりといった語り手のあるひとつの視点によって紡がれる物
語へ(「こうこうこうなってね」みたいな話)と参加していく。


基本的に何も知らない読者にすべて教えてくれるのはその「語り手」である。
だから当然読者はその語り手を信頼する。
その人しか頼れる人がいないんだから、それも当然だ。
しかし、著者は「信用ならない語り手」というのも存在するんです、と指摘する。


そこでぼくは驚いた。というより疑問が生じた。
じゃあ、なにを信頼したらいいの?


しかし、おそらくそれは極端な考え方なのだ。
身近な人間関係を例に考えてみるよう。
人は誰だって嘘をつく(「Everybody lies」。うん、たしかにそうだよね)。
昨夜までは友人と『アバター』を観に行く気だったのに、今日になったら突然熱が冷めて
しまって、「ごめん、今日仕事がはいっちゃってさ」といってドタキャンしたりすることがままある(でしょ?)。
だからといって、ぼくらは人(そして自分)を「こいつは信用ならんから、金輪際あいつ
を信用するのをやめよう」ということはしない。


「人はケースバイケースでウソをついたり正直なことをいう。
「ウソつき」でもなく「真実しか言わないヤツ」でもない、その両極端の間を行ったり来
たりする存在。それが人ってもんだ」、というのが一般的な認識じゃないだろうか。


しかし、著者はムルソーは信用できない人だ、という。
その理由は彼があまりに正直すぎるからだ。
正直すぎるのことが信用できない、というのは一見おかしく聞こえる。が、人は適度にウソをついて、この世界をなんとかやり過ごしているのだから、あまりに正直過ぎるというのも、それはそれで困った人なのだ。


というのも、このムルソーという男は、母が死んで実家に帰省し、その近辺にある海辺で
偶然再開した幼なじみと仲良くなるのだけど、付き合いだしてしばらく時間が経過したの
ち、彼女が「わたしと結婚したい?」と尋ねらられると、「どっちでもいいことだが、マ
リイ(自注:その女性の名前)の方でそう望むのなら、結婚してもいい」というのだ。


これはすごい。ふつうは、「もちろんだよ」とか調子のいいことを言って、そのあと「やばい。ってか、オレ、ほんとに結婚なんかしたいのか?」と彼女と別れてから悶々と考え込むものだと邪推するが(なにぶん、未経験なものでわかりかねます)、ムルソーは「どっちでもいいんだけど、君がしたいならするよ」と即答するのだ。
この言葉を聞いて歓喜する女性はこの世にひとりもいないだろう。しかし、ムルソーにとってその言葉は真実であり、彼女と結婚することはほんとうに「どうでもいいこと」なのだ。


そして著者はムルソーがそんなヘンなことをいうのは「自己の欠如」している人間だから
だと判じる。
「自己の欠如」とは、自分はこちらを選択するという、選択時における自分の判断基準が
存在しないことを指すのだろう。


著者はこう続ける。

われわれはきっと、ものごとの根拠や意味を保証してくれる大きな存在を失った、砂漠
のような世界に生きているのだろう。しかし、それを口に出してはだめなのだ。(P.29)


この言葉を聞いて思い出すのはニーチェの「神は死んだ」という言葉だ。
神を信じることによって、迂回的に自分の人生が肯定されていたけれど、近代の科学によ
って神の不在が証明されてしまった以上、われわれは自分の人生の価値を自ら見つけ出さ
なくてはいけない、とかそんなようなことだったとおもう。


現代においても、その事情は変わらないようにおもう。
ぼくらは「自分がなぜ生きているのか?」という超根源的な問いに対する答えをもちあわ
せていない(すくなくとも、ぼくはまだもってない)。
なんとなく生きている、というのが実感にちかい。


『2001年、宇宙の旅』でスタンリー・キューブリックが「人生は無意味だからこそ、
意味と目的を創造することができる。闇がどれほど深くても、自らの手で明かりをともさ
なければならないんだ」*1と人々を啓蒙する意味を込めて映画を撮ってはいるが、実際問題、それができたら苦労ないんですがね、というレベルのむずかしい話だ。
だからといって、「どっちでもいい」というような自己決定を投げやりにしてしまった
ら、それはそれで困ったことになる。


著者は、とりあえず「どっちでもいい」とはいわないようにしよう、といって古典から生きる技術をくみ取り話を切り上げている。
現代を生きるぼくらには、だからまだこの大きな課題がのこされたままである。
この難問に答えることは難しい。それは永遠の課題のような気もする。すぐに答えはでないことだけははっきりしている。だからとりあえず、「どっちでもいい」という言葉を口にするのだけはやめておこうと思う。
人を不快にし、傷つけてしまうというった問題もあるが、なによりそんなことをいってい
ると、人生そのものもどうでもよくなってきて生きる気力が奪われてしまうから。