キャッチされなきゃ生きていけない→『ハックルベリイ・フィンの冒険』


昨日の本を使い回してエントリをうpします。


生きる技術は名作に学べ (ソフトバンク新書)

生きる技術は名作に学べ (ソフトバンク新書)


二匹目のどじょうは『ハックルベリイ・フィンの冒険』。
アウトラインをざっくりいうと、ハックという男の子が世を捨て旅にでて、自分を新しく
立ち上げようとする話(だそうです)。
あとこの小説に出てくる登場人物の説明が必要になってくる。


ではトムについてから。
トムは快活で社交的で自分の価値観に確固たる自信をもってる男だ。
金はがっぽり稼ぐものだし、女は口説くものであり、他人はコントロールするもの。
トムの価値観はどっしりとしていて、そこにブレはない。
だから彼は世の中を軽やかに生きていける。


たいして主人公ハックはトムとは真逆の人間である。
既存の価値観に従って生きることができず、どのように自分というものを定めていったら
いいのかよくわからず、つねに揺らいでいる。
とうぜん生きづらい思いをしている。
世の中で「こういうのが常識だよね」という考え方や価値観があり、それに懐疑的でノレ
ないのがハックであり、疑問符がピコンと点滅しないのがトムなのだ。


ハックルベリイ・フィンの冒険』はこの世の中や社会をというものを形成している価値
観(=「自明性」)にたいして「それって、ほんとなのかよ。それでいいのかよ」と疑問
をいだきながら、その世界の中で右往左往しながら自己を確立しようとするハックの成長
譚だと著者はいう。


ハックは社会との間に自分の居場所をみつけることができないこの世界を捨てて旅にでる。
自分の死体を用意して。
ここで不思議なのは、なぜわざわざ自分の死体をこしらえて出ていったのかということだ。
著者はそれを「象徴的な死」を演出するためだという。


「象徴的な死」?
どういうこと?
なんのために?


すこし話は飛ぶけれど、まず「名前」というものの役割をしなくてはいけない。
名前とは「この社会においてどのような役割を担っているのか」を表すものである。
現代でいえば、それは学校や職業や地位といったものと置き換えられる。
その名前(っていうか、肩書きか)が、わたしというものの存在を事後的に位置づけるも
のとして機能する。
「えっ。あなた、あの一流企業に勤めていているの? なら安泰ね」
まぁ、もはや一流企業に所属していたからといって、安泰の時代とはいえないのだけど。


話を戻そう。
名前はこのように、ただここに存在しているだけの「わたし」というものに意味を与え、
「わたし」を解釈することを可能にするものとして役割をはたしている。
ハックは自分が所属するコミュニティのなかでの自分というものが気に入らなかったのか
もしれない。
だから、「ハックルベリイ・フィン」というひとりの人間を象徴的に殺す(「名前」を消
す)ことによって、新たな自分という存在を立ち上げるための旅に出た。
わかりすぎる。


著者はここで「ライ麦畑でつかまえて」(『The Catcher in the Rey』)のホールデンをひく。
ホールデンもハックとおなじように、自分の存在を学校や社会のなかでうまく位置づける
ことができずにニューヨークの街をさまよい歩くような子供だった。


では、社会にうまく自分というものをうまく据えることができなかった彼らに必要なのは
なんだったのか?と著者は問いを立てる。
それは「自分をキャッチ(自注:Catch)してくれる誰かの存在」であり、それ「がなけ
れば生きてはいけない」ということだ。


ひとは自分の世界のなかだけで生きてくことはできない。ぼくらには他者による承認がどうしても必要なのだ。そうしないことには、自分の存在を、生を肯定することができない(これについてはひとつ前のエントリで触れました)。
しかし、ハックやホールデンには自分をキャッチしてくれる人がいなかった。


もし彼らに自分の存在をキャッチしてくれる人がいたらどれほどよかったか。
ぼくはそう想像せずにはいられない。