心よりも行為:『50/50』



 ヒドイ目にあったら、だれだって自分のことで精一杯になる。どうやったら今より良くなるのか、なぜこんなことになったのか。悩み、後悔し、不条理に不満を感じる。
 ラジオ局に勤めているアダム(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)は、早朝からランニングをし、まったく車が通っていない道路でも、信号が赤なら止まってるくらい真面目なヤツ。
 ある日、腰痛を見てもらうために医者にかかったら、聞き取れないくらい長い名前のガンが出きてますと告知される。
「なんでオレみたいな普通の人間がガンに? まだ27歳だし、5年後の生存確率が50/50?」
 やがて抗がん剤治療を行うようになり、そこで出会った父親と同年代くらいの闘病者たち出会う。
「なあ、知ってるか? 名前が長ければ長いほど、悪いガンなんだぜ」と言って笑わせてくれる気のいい人たち。
 でも人の良さと病気には残念ながら関係はない。
 死は、ある日突然やってくる・・・。


 本作はガンに罹患(りかん)したアダムの視点から描かれてます。突然起きた不幸に当惑し、絶望し、無気力になっていきます。
 これは人間の心理として当然だろうし、おなじ病気にかかったら、きっとぼくも同じように絶望し、無気力になっていくんだと思います。
 ただ当事者の無気力については、ほかの映画でもよく描かれています。この映画で「おっ」と思ったのは、「深刻な出来事は当事者だけのものじゃない」ことに注目していること。
 ガンにかかったアダムは、浮気をした彼女を追い出し、世話を焼きまくる母親を煙たがり、おちゃらけてる友人を責めます。当事者であるアダムからすれば、彼らは運のよい人々であり、自分の不遇を理解なんかできない存在だから。
 でも、本当はちがいました。


 彼女が浮気をし、母親が世話を焼きたがり、友人がおちゃらけているのは、すべて自分がガンに罹ったからだった。ある者は支えることの重荷に耐えきれず、ある者は負担を軽くしようとして過剰になり、ある者は日常を演じ続けようとして軽くなっていた。ガンに苦しむ自分には、それが分からなかった。
 もちろん自分は「負担になるだろうから別れてもいいんだよ、と彼女を気遣った。でも彼女は自分と一緒にいることを選んでくれた。だから彼女が浮気をしたとき、理由も聞かずに家から追い出した。
 でもそれは、本当に正しい行為だったのか?
 自分と闘病生活を送ろうとしてくれた彼女の決意を、覚悟、勇気を忘れてはいないか?
 途中で逃げ出してしまった彼女の心の弱さを責めることができるのか?

 
「(責めることは)できない」というのは、観客としての僕の意見です。
 正直、大変なことになった、彼氏を捨てて逃げたいと思っただろうけど、彼女はいつもアダムのそばにいてくれたし、夜にはいつもアダムのベッドに戻ってきていたから。それは一度約束をした者の責任感からだったからだと思います。
 心よりも行為が大切だと思うんですよね。アダムは彼女を赦すことはなかったのですが、たぶん最後にはおなじような気持ちになったんじゃないかなと想像してます。それは終盤、母親や友人といった、不幸の当事者を想う人々の本音を知ってしまったから。病気は自分だけのものじゃなくて、自分を含む周囲の人々のものだと気づいてしまったから。そして彼女にはしてあげられなかった「行為」を周囲の人々にしていくんです。
 なんかですね、そこらへんのことを想うと、すごく切なくてなるいい映画でした。