自分探しpart2


前回、「自分探しの哲学」という本で、本から得た自分探しについての見解を述べた
自分探しの問題は、本当の自分はどこか他のところにあるのではないか、という願望
によって、現在から逃避することだ、っということを。
っで、それはそれであのときは得心がいったのだけれど、まだ物足りなさ

を感じていた。あれではまだ役にたたないから。

そんな折、ある本の一節に心惹かれた。

可能性とは、外部から何かが付け加えられることで「達成される」のではなく、
その人にあらかじめ備わっている能力が、ただ最大限に発揮されることを指す。
要は、「潜在した事実」のことで、時間的に先にあるはずのものが、現在にすでに
あることを示している。だから、持っているものをそのまま発揮すればいい。
にもかかわらず、人は生きる経験中それができなくなる。
そうなると定型化した物の見方や動きを反復することで経験を得ようとすることの
問題は、いますでに持っている能力をそのものを省みないことにあるだろう。
素質とは自分と関係ない外部や未来にあるのではなく、自分の内と現在にある。
(『Flow』)



これは見事な知見だと思う。

自分探しという「探す行為」にもし意味があるとしたら、外ではなく、内。

内側に存在する才能、素質に目を向けるべきである、というのが

ユンさんの主張であり、岡本先生が指摘したい点であったっと思う。
自分は自分でしかなく、他の誰かでもないのだから、

探すべき対象は内側というのは、至極まっとうな主張であると思う。

でも、そう考えると、
「では自分の有する才能とは、何だろう?どこを伸ばしていけばいいのだろう」

ということになる。

ここでも、すぐれた知見を先日発見したので、

そこから引用させていただこうと思う。

「才能がない」人間とは「自分には才能がない」という事実を直視できない

人間のことである。

彼らは「努力」によって才能の不足をなんとか埋め合わせることができると

思っている。
反対に、「才能がある」人間は、自分にはどのような才能があり、どのような

才能が欠けているかを知っており、それが「ある」ことも「ない」ことも、

個人的努力でどうこうできる水準の問題ではない、ということを知っている。

「才能」というのは、「努力できること」を含んでいる。

ある活動のためにいくら時間を割いて、どれほどエネルギーを注いでも、

まったく苦にならないで、それに従事している時間がすみずみまで発見と

喚起に満たされているような活動が自分にとってなんであるかを知っていて、

ためらわずそれを選び取る人間のことを私たちは「才能のある人間」と呼ぶのである。
(『子どもは判ってくれない』,内田樹


自分が何に興味があるのか、何が嫌いなのか、何ができないのか、

何が好きか?ではなく、何がキライか的な思索の末に、自分の才能(できること)を、

いろんなことへトライより、フィードバックを通して内側を探っていく。

この見解は、見事だと思う。

僕らは愉悦が引き出せる対称にしか、興味を持ち、努力し続けることができないから。

そして、自分探しをするなら、この点には意味があるように思う。


あてもなく「自分とはなんだろう?」などと、大きなテーマを

自分に問いても、見つかるものは、(たぶん)ない。

そのまま袋小路に入っていってしまい、出口の見えない場所でもがき苦しみ、

精神的疲労を重ね、ストレスによって目がピクピクする症状に罹患するだけ。

原因は外側に求めるからだ。

だから、外に目を向けてはいけない。

フォーカスすべきは、内側の自分である。

何かにチャレンジしてみれば、その結果はおのずと自分にフィードバックされる。

自分が「こうだ」と描いていたものと、現実とは全く違っていた

なんてのはよくあることだ。

だけど(非常に辛いのだけど)めげずに、とにかくトライしていく。

そうすること自分の「素質・才能」に気付いていく。

あとは、ただそいつを伸ばしてやっていくだけ。

当たり前だが、人は何かに変身できるわけではなく、ただ自分自身になること

ができるだけだ。(中略)「本当の自分」は題目を唱えなければなるわけでも

なく、ましてそれは「理想の自分」といった想像の産物でもない。

「本当の自分」とは「ただの自分」でしかないものだからだ。
(前掲書)


自分探しにもし意味があるとしたら、いまだ知らぬ自分の「できない」「やりたくない」

に気づくための作業(言語化)をし、発見したもの(才能)を伸し続ける努力にあるのではないか。



子どもは判ってくれない (文春文庫)

子どもは判ってくれない (文春文庫)

FLOW―韓氏意拳の哲学

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