貴族になろう→「大衆の反逆」+「知に働けば蔵が建つ」


 古典的名著と呼ばれるオルティガの「大衆の反逆」の中身に初めて触れたのは、

内田樹先生著の「知に働けば、蔵が立つ」という本の中でだった。


 本書の書かれた背景には「政治的・文化的な分極化が進んでいた当時のスペインを統合する」

という意味で記された書物だったらしい。だけど、学のない自分には「現状に満足する大衆とし

てではなく、常に過不足を感じている貴族として生きよ」、という人生教訓の書として読ませて

頂いた。


 なにより前者の文脈では、自分にはなかなか読むことができない。

だって、統合の論理を教えられたところで、何も得るものがなさそうだし、

何より興味がわかない。


 でも、この人生の教訓・準則としての読み方に変えると、興味がグンっと沸いてくる。


 そもそもオルティガがいう、大衆とは何の事だろう。

まずこれを把握しなくてはならない。


 本書の定義によれば、

《大衆とは、よい意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、
自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛をおぼえるどころか、
他の人々と同一であること感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである。》



 このような人物を大衆と呼んでいるらしい。

(そしてこの大衆が支配し始めたことに危惧を感じ、対極にある貴族という概念を持ち出し、

スペイン統合の道を示したようである。)


 このようなファクターは自分のうちにも少なからずある。


「はーい。じゃあアンケートとりまーす。〇〇さんが学級委員に最適だと思うひと〜。」


 当時、場を取り仕切る〇〇クンの質問に、周囲の人が面倒くさそうに手を挙げ始めて

からでなきゃ、手を挙げられなかった。一人だけ、ヘンなタイミングに手をあげてしまい、

みんなと異なることはたまんなく怖かった。


 このような人物を大衆と呼ぶ。


 っで、対する貴族とは、

《私にとっては、貴族とは常に自己を超克し、おのれの義務とおのれに対する要求として

強く自覚しているものに向かって、既成の自己を超えてゆく態度を持っている勇敢な生と

同義語である。》



 つまり、自らのうちに埋めがたい欠落感を抱きつつ、どうしても自己肯定できないず、

努力することをとめることができないもの、のこと。


 うーん、意外にもこの要素もちょこっとある。


 哲学や心理学など、近年生意気にも興味が湧き出したのだけど、

「なぜ、このニーチェに関する知識を欲しているのか?」

「なぜ、知りたいのか?」


 が、分からない。猛烈に惹かれるものがあるのだけど、さっぱり分からない。


 しかし分かっていることもある。

それは、自分が圧倒的に「知が足りない」者、浅学なる者という自覚であり、

ゆえに、本を買いあさり、ちょこちょこと先達の知見をインプットし、自己を答えを探ってゆく、

という行為をやめられないということである。


 ただ、自分にも分からぬことを続けるということは、周りから貶されることもある。

「おまえさぁ、知識だけはついてきたけど、それがなんなのよ。」


 我が友人ながら、酷い言い草であるが、まぁ事実役立っていないのだから、

そのような言葉も口をついて出るのかもしれない。


 しかし、合理的思考ではないのである。

簿記の検定や英検をとったら、就職に有利、とか、そういった損得勘定の話しではない。


 自分でもなぜだか理解できないが、どうしても気になる。他の人に何を言われようと、

読むことを止められない。内側の根本的なところから自発的に希求しているものなのである。


 以上のことからも、貴族的ファクターというものも、自分には含まれているように思う。


 っということは、オルティガが大衆だの貴族だのという概念を持って説明しようと

しているのは、元来人間にもともと備わるファクターのことではないだろうか。

《オルティガがもたらしたのは、「努力」とは自分の中にある複数のファクターの

間の確執として、あるいは自分自身との不一致感によって担保されるという

知見であったと私は思う。

(中略)

オルティガ的「貴族」とは、自己に満足できず、どうあっても自己を肯定しきれない

人間のことなのである。自分のことがよくわからず、自分が何を考えているのか、

何を欲望しているのか確信できず、それゆえそれを知ろうと望むこと、それが「努力する」

ということである。》(「知に働けば蔵が建つ」より)



 努力をすること。

これを不必要だという方はいらっしゃらないはずだ。


 しかし、努力できる者と出来ない者がいる。

この乖離の原因は何だろう?


 それは、大衆の特徴である、自己肯定、自己満足感にある。

自分と同じようにふるまう人間が増えれば増えるほど、それは正しいものとして、

正当な理由で採用されることになる。


 つまり

《「多数はの偏見」が常識とみなされ、「多数派の臆断」が真理とみなされるのが

大衆社会である。》(同著より)



 ということのようである。

周囲の人間が「今のまんまで別にいいんじゃねぇの。がんばる必要なんてないし・・・」

と漏らす中で、努力することは難しい。


 そこでは、彼らと同じ戦略を用いることが有効ということになる。それが大衆社会の真理だから。

しかし、そこにアイデンティティーを求めることはできない。


 皆と同じことを行うことは確かにラクであり(思考しないですむから)、それなりに楽しいである

だろうけれど、時に感じる「自分はなぜこの世に存在しているのだろうか?」という問いの答えを

得ることはきっとできない。(同じ行動しかしないから。)


 そして、大衆として生きることは、努力を要しないであろうから、生存戦略的にも

淘汰圧がかかり、苦しい生活になっていくことを免れないと思う。(代替不可能性を突き詰め

ていくことが、職を失わないコツだから。みんなが同じ事をできたら、固有の価値などきっと

持ち得ない。)


 オルティガの「大衆の反逆」は、歴史を学ぶ書物として読むことができる。


 しかし、どの道を行くか、どう生きるか、という人生の処世術本として読むこともできる。

そのような文脈で読むとき、読者には大衆として生きるという戦略があまり

楽しくないものであり、貴族の生き方が魅力的に映るのではないか、と私見では思う。


 というわけで、本日は古典「大衆の反逆」と「知に働けば蔵が建つ」のご紹介でした。

大衆・貴族論が原著の方ではわかりづらい、と思われた方は内田先生の本から

入られるとよいと思います。


 身が震えるような知的興奮を感じ味わいながら、学べる良書となっております。



大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)


知に働けば蔵が建つ

知に働けば蔵が建つ

  • 作者: 内田 樹
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2005/11
  • メディア: 単行本