前回の続き。


「なぜ自分のために働いてはいけないのか」について内田先生から教えを乞う。
(参考文献:「ひとりでは生きられないのも芸のうち)


私たちの労働の意味は「私たちの労働成果を享受している他者が存在する」
という事実からしか引き出すことができないからである。(同書 p94)


と先生はおっしゃる。


はて、どういうことだろうか。


そもそも、僕らはどういったモチベーションで働いているのだろうか。


①遊ぶため。
②モノを買うため。生活費を稼ぐため
③働かなきゃいけないから。(=憲法で定められた義務)
④暇を潰すため。
⑤だれかの為に役立つことをするため。


動機は多種多様である。
けれど、根底に一つの思想が流れてる。それは「自分を幸福にすること」である。


遊ぶにしろ、生活費を稼ぐにしろ、誰かのために働くにしろ、「自分を楽しませ、幸せに生きるために」
という思いがある。だから、働く。


しかし、この近視眼的視点(=自分だけを幸せに)では、いずれ限界がくるという。


それはなぜか。
かなり長い引用になるが、省略することができないので、そのまま引用させていただく。

学生たちは就職活動に全力を注ぐ。
いかに自分の能力や適性を採用者に効果的にショーオフするかに懸命になる。
そこには「自分のため」という動機しかない。
だから、就活が終わり、四月に職場に立ったとき、自分には「労働するモチベーション」がないという
ことに気づいて若ものたちは愕然とするのである。
「求職するモチベーション」と「労働するモチベーション」は別のものである。
「求職活動はせいぜい一年間の有限の活動であり、そのとき参照するのは「自分と同学年の競争相手」
の就職状況だけである。けれども、「労働活動」は二十歳すぎから六十過ぎまで四十年以上続く。
 労働において、その活動の正否や意味や価値についてあなたが「参照」できるような「ほかの条件がすべて
同じであるような競争相手」はもう存在しない。
 最初の数年は「あの人より自分の方が高給だ」とか「自分の仕事の方が高い評価を得ている」というような
同族間の比較がモチベーションを維持するかもしれない。だが、そのようなものはいずれどこかで消えてしまう。
その後の長い時間は自分自身で自分の労働に意味を与えなければならない。(同書 p93-94)


ぼくらは比較を通じて物事の価値を知り得ることが出来る存在だ。
ジャニーズがかっこいいと言われるのは、ふつーの人々を見ているからだし、自分ちのご飯があまり美味しくなく、
お惣菜が1品しかだされないことに驚くのも、人様のお家にあがりこみ夕飯を食べさせていただくことで知ることができる。


何かを知るには比較対が必要なわけである。


しかし、このような比較的手法によって相手に勝っていることで優越感を感じ、これをもとにモチベーションを維持させようと
してもいずれは破綻がくる、と先生はおっしゃる。
たぶん、そうだろうなと思う。


「あいつより3万も多いぜ。」とか「おれの仕事はクリエイティブな仕事だから」みたいな点において、他者と比較すれば
愉悦を引き出すことに成功するだろう。多くの人々の仕事はそれほど華やかでもないし、高給なわけでもない。
自分の現状をきっと誇らしくおもうこと請け合いである。
しかし、あと数十年もそのことにしがみついて悦に浸れ続けることができるだろうか・・・。


僕はまったく自信がない。きっとむなしさを感じずにはいられないと思う。
それがなんだってんだ、みたいに。


じゃあ、逆に僕らが意味を感じられる点はいつだろう。
思い返してみる。


・友人に1万円貸してと頼まれ、貸してあげて、だけれど彼の生活が苦しそうなのが目に浮かんできて「この間の金、やっぱ返さなくていいから。
じゃ、また。」みたいな気取ったことをしたとき。
・なくなりかけた母愛用の「610ハップ」(=入浴剤)を近くのドラッグストアにいって買ってきておき、彼女が
いままでのものがなくなったことを知らず、そのまま使用しているのをみて、ほっこりする時。


考えてみれば、僕らが「あ〜、きもちぃ」という感情を得ることができるのは、往々にして他者を通じてやっと入手できるものである。
逆説的に言えば、愉悦とは他者を迂回してしか享受することができないものだといえる。


皮肉なことだけれど、「自分のため」を追求していけばいくほど、永遠に「幸せ」は得ることができない。


ではそうだとしたとき、どのように働いて行けばいいのか。
このことについて考え、実践していくことが、大人になった僕らの課題であり、幸せに生きるコツなのだと思う。

ひとりでは生きられないのも芸のうち

ひとりでは生きられないのも芸のうち