『うそつき―うそと自己欺まんの心理学』

 人は誰でも嘘をつきます。例外なしに。
これは『うそつき』のチャールズ・V・フォードの認識(「人はだれもがうそをつくこと
は厳然たる事実である」)である。
「んなことねぇよ、オレは今まで嘘をついた事ないよ」と嘯く人がいるかもしれない。
しかし、その主張自体、すでに「嘘」なのである。
なんとも皮肉なことに。
 本書を読んでいただければ、あまりに多様で狡猾なうそを一通り使いこなしている自分
の姿にびっくりされると思う。
えぇ、わたしはビビりましたとも。
おれってこんなにも偽善者だったのか、と(笑)。
根拠をあげよう。
(但し、くれぐれも他人によって「うそ」を露見されたくない人は続きは読まないよーに)


儀礼的うそー「じゃ、今度ゼッタイに飯行きましょうね」の口約束が実現した日はあっ
        ただろうか。これは両者による共犯的なうそである。相手もいちいち真
        に受けていない。本心を語っていたら、世の中はあまりにも生きづらい
        です)
・愛他的うそー「どう、ヒロ?これ見てわかんない?」と明らかに見て取れる変化(新し
        く買ったメガネ)を暗示(っていうか指示)して、ナルシズムを強化し
        ようとしている彼に、「んー、似合っていないね」と自尊心を傷つける
        本音は言えない。
        不必要な現実を突きつける必要などどこにある?オトナはそんなことし
        ません。
・防衛的うそー「すみません。今日提出する予定のレポートなんですが、実は昨夜突然
        PCが壊れてしまいまして…」の類いのもの。
・ほかにも「攻撃的なうそ」「愛他的なうそ」等のうそが列挙され分類されている。


 これらのうそはいちいち頷ける。
体験積みなわけですね、ようは。
 しかし、そもそも、なぜわれわれは「うそ」を必要とするのか?
自分の自尊心やアイデンティティを保つために、というのは一面の真理だろう。
「なんであいつが合格してオレが落ちたんだ?あいつカンニングでもしたんじゃねぇの」
なんて自助努力を棚に上げした誤った自己評価はよくやってるわけでね。
アイデンティティはそれによって確かに保たれる。
 が、しかし、友達や知り合いにわざわざウソをついてあげるのはなぜか。
ウソをついているのがバレると口先だけのヤツと見破られてしまうのに、あえて無理をし
てまで挑むことがある。
 不思議だ。
そこには、真実を告げることによって相手に嫌われたくないから、という打算的な欲望が
あることは間違いないだろう。
 ただ、それだけではないはずだ。
 そこには損得の物差しでは計測できない、他者の自負心に対する気遣いがある。
彼が失恋して深く傷ついているとき、私たちはほとんど無意識的に「うそ」を語り始める。
頭を垂らしながら聞いている彼もそれが「うそ」であることを承知している。
だが、お互い「うそ」であることを知りながら、「うそ」ではないと思い込もうとする。
欺瞞であっても人は癒されることを互いに知っているからだ。
「人間はあまりの真実には耐えられない」という真実を。
そのようなうそを語り合りあう光景が常態なのは、人間にとっての自負心の重要性の証左
であり、そして自分がいかに弱い人間であるか知っているからこそ互いに嘘を口にし合う
欺瞞性を「暗黙の了解」として不問にし、互いを支え合っているのかもしれない。


 最後に「うそ」が体系的に語られていこの書物の効用を無理矢理考えてみると、自分が
いかにうそつきであるかを知れることにあると私は思う。
 本書を読み進めていくと、いかに無自覚的あるいは意識的に自分で自分を騙し、自己充
足の世界のうちにまどろんでいるのかを痛感させられる。
その幻想世界からの覚醒は痛みを伴う。
脳内で都合のよいように出来事を編纂し作り上げてきたファンタジーの世界ではダメージ
を受けることはないが、現実の介入によって強引にでも真実を見せられてしまえば、やは
り無傷ではいられない。
それはかなりヘビーな体験である。
 また、覚醒に加えて、読後はうそのリテラシーが高まるため、今後うまく自分を騙せな
くなる危険性が高まる。
 もっとはっきり言おう。
だましにくくなる事は必定だろう。
しかし時に現実を直視し対峙するというのは、自己を進化させ世界とより深くコミットし
ていくことでもある。傷つくことなしに成熟することはできない。
 われわれは現実と幻想の間を行き来する場所にいる。

うそつき―うそと自己欺まんの心理学

うそつき―うそと自己欺まんの心理学