『グラン・トリノ』

グラン・トリノ」★5(監督:クリント・イーストウッド



チェンジリングに続く傑作。
舞台はアメリカのデトロイトの小さな町。
ガチガチの人種差別主義者の元フォード工ウォルト・コワルスキー(クリント・イース
ウッド)はその地に一人残って暮らしている。他の白人はとっくに出て行ってしまった。
まわりは移民ばかりで彼は浮いている。
トヨタのセールスマンをしている息子とも疎遠だ。
自分を老人ホームにいれようとしたり、コネを頼ってきたりする利己的な子どもたちとは
うまくいっていない。
また、朝鮮戦争でたくさんの人を殺した彼は、いまだにその罪の意識から自由になること
はできず苦しんでいる。
だが、彼には古き良きアメリカを象徴する72年型グラン・トリノがある。
愛車をピカピカに磨き上げ、ポーチに腰掛けてそれ眺めながらビールを飲むのが至福のひ
とときだ。
だがある日、隣に住むロー一家を(意図しないところで)救ったことから、複雑な事情に
巻き込まれていく…。
(2009/5/4 補記
どうしても書いておきたいので。
どの役者もすばらしい演技を魅せてくれるが、とりわけロー一家の娘役のスー(アーニー
・ハー)は余人を持って変えがたい存在だった。
その彼女の身に起こったことを許せる観客はたぶんいない(それを知ったコワルスキーが
壁にもたれかかり呆然と佇むショットもスゴイ)。
あのカットは、個人的映画史に刻まれる超衝撃シーンであり、目の当たりにしている映像
がちょっと信じられず、眼がカッっと見開いてしまってしばらく元に戻せなかった。
あのカットは、ちょっと他の監督では演出できないんじゃないかな、というくらい比類な
きものになていると思う。やっぱりスゴイな>イースト・ウッド)


●映画を撮る監督は、世界を俯瞰的な視座から見て、撮って、それを観客に呈示する。
つまり高所から下界を見下ろす視座が必要であり、でなければ物語はまとまらない。
しかし、イーストウッドは高いところにあるディレクターズチェアには腰掛けず、われわ
れが暮らす、地面に足がへばりつく世俗までするすると降りてきて、この世の不条理を一
緒に共有する。
この世から一抜けしている者としてではなく、まさにこの世の中に、そこら中にあるよう
な難問に直接コミットして一緒に苦しむのである(そこがスゴい)。
抽象的表現次いでに言えば、暴力の被害者になったときどうすればよいか、についてであ
る。
被害者は到底加害者を許すことなどできない。
だから相応の代償を支払わせるべく復讐を試みる。
この「憎しみの連鎖」をどのように断ち切り解決するか、国際問題に限らず、それはどこ
にでも生じている悩ましい問題である。
攻撃されたら応戦せよでは、戦いはいつまでも終わらない。
映画はこれに一つの解答を与えるが、そこに『許されざる者』からのイーストウッドの思
考の遍歴が見える。


●神学校出たての神父がコワルスキーに向かって「生と死」を語る。
コワルスキーはつねに犬が他の犬(敵)を視認してウ〜〜〜ッと低音で唸るような声を出
している。神父もその対象例に漏れない(彼は世の中ほとんどがキライなのだ)。
神父が「ウォルト」とファーストネームで呼びかけると、「ウォルトじゃない。コワルス
キーさんだ」と呼び方を訂正させる。
しかし、コワスルキーはただの偏屈じいさんなわけではない。
実際に長年連れ添った妻を亡くし(葬儀=オープニングシーン)「生と死」を直視してい
るコワルスキーにとって、頭の中でこねくり回した若者の「生と死」論など講釈されてた
まるか、という思いが反発させているのである。
しかし。
ある事件が起こった夜、神父はコワルスキーを訊ねてきて神父としてではなく一人の人間
として腹を割って語り合う。そしてコワルスキーの境遇に心から共鳴する。
このシーンが感動的なのは、神父が頭ではなく身体で考えるようになったからだ。
体験の入っていない言葉は、ただのレトリックである。
レトリックは人の注意を惹き付けはするが、心の深いところまでをも動かす力はない。