『ラン・ファットボーイ・ラン』

『ラン・ファットボーイ・ラン』★5


サイモン・ペグは「大人になること」に興味があるのかもしれない。
ショーン・オブ・ザ・デッド』でも、責任を取る事ができないダメ男がゾンビと
の決闘において愛する人を失い、また許し、大人になる物語が描かれていた。
ひとは自分ひとりだけの世界の中では大人になることはできない。
そもそも大人になる必要がないんだから、なれるはずがない。
両親や兄弟、友達や恋人といった他者と接し、彼らとの(ときに面倒で困難な)関
係を取り結ぶなかでしか大人になる契機は訪れないし、大人にはなれなることはで
きないという教示は勉強になる。


結婚式当日に花嫁を置いて走って逃げ出し、5年経った今でも未練たらたらでより
を戻したいと密かに妄想するデニス(サイモン・ペグ)は、けっしてできた大人で
はない。
いや、むしろこれほどダメな人はそうそう見当たらないというレベルのダメっぷり。
元カノには紳士で裕福でイケメンのウィットがいる。
自分にあるものといったら、この五年でたっぷりと蓄えたおなかの脂肪と、スタミ
ナ・根性・勇気のなさ、家賃滞納といった負債に数え上げられるものばかり(唯一
の救いは、心優しい人だということ)。
この何もない中年に差し掛かった男がどうやったら大人になることができるか?を
本作では執拗に丁寧に描いている。
そういった意味では、万人に開かれた主役のキャラクターにデニスを配したことに
より、本作は多くの人に希望を与えてくれる強い教育的メッセージが詰まった映画
になっているといえる。
もっと砕けた表現をするなら、すごく泣けて感動させられちゃうのである。
なぜか。
それはデニスというダメ男に共通項があるのではなく、彼の前に立ちはだかってい
る「マラソンの壁」(しばらく走ると、棄権することだけしか考えられなくなる精
神的限界点を喩えた比喩)が、姿形を変えてぼくらの前にしっかりと存在している
からである。
「マラソンの壁」の比喩は、いろいろなシチュエーションで思い出すことが可能で
ある。そしてたいていにおいてそれは、回顧することが嫌でしかたない経験であり、
そう記憶しているものである。受験とか恋愛とか就活とか。
その「壁」に直面しているとき、オレは絶対に勝てないんだとなぜだか強く思う。
なぜだかよくわからないけど、勝つことはできないんだ、と強い確信を持ってそ
う思う。
ネガティブなことは承知している。
けれど、その思考からなかなか自由になることができない。
この作品に出てくるデニスはランニング中そう感じているし、観客側も彼の心境に
シンパシーを抱く。
つまり、(一緒にではないが、彼を観ていて、内省的に)絶望する。
が、ラストでこのネガシブシンキングを払拭してくれる。
その瞬間、『風の歌を聴け』の僕がいった言葉を思い出した。

「でもね、よく考えてみろよ。条件はみんな同じなんだ。故障した飛行機に乗り合
わせたみたいにさ。もちろん運の強いものもいりゃ運の弱いのもいる、金持ちもい
りゃ貧乏人もいる。だけどね、人並みはずれた強さを持ったやつなんて誰もいない
んだ。みんな同じさ。何かを持ってるやつはいつか失くすんじゃないかとビクつい
てるし、何も持っていないやつは永遠に何ももてないんじゃないかと心配してる。
みんな同じさ。だから早くそれに気づいた人間がほんの少しでも強くなろうって努
力するべきなんだ。振りをするだけでもいい。そうだろ?強い人間なんてどこにも
居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ」(『風の歌を聴け』,p121)


ラストが感動をもたらすのは、デニスだからこそだ。
結婚につきまとう重責(=壁)から逃げ出し、今日まで逃げ続けた男が(=ここで
自分とカブる)42.195キロのフルマラソンを通じて「壁」を克服して大人になる姿
をみて、「ならオレにもできたっていいはずじゃないか」と希望を見いだし感動す
るのは自然の理だろう。
「強い人間なんかどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけ」という
壁を乗り越えるためのマインドを、理屈じゃなくて心で学ばせてくれる映画は秀作
と呼んで差し支えがないと思う。
お見事。


あと、蛇足だけど、サイモン・ペグはコメディな演技に秀でてる。
Tシャツに海パンを履いてランニングの準備万端。
屈伸運動をして、腕時計のストップウォッチボタンを押し、意気揚々と走り出して
から1分と経たぬうちに横っ腹を押さえながらギブアップする姿をこれだけリアル
に演じられる俳優はそうそういないんじゃないかな。
ファンになっちゃいました。


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