『たそがれ清兵衛』

たそがれ清兵衛』★2


下級武士の井口清兵衛(真田広之)は、離縁し実家に帰ってきていた幼馴染みの朋
江(宮沢りえ)と密かに想い合いう間柄なのだが、身分の差が障害となって結婚に
踏ん切りがつかないでいる(で、ビビって、向こうからの縁談を蹴ってしまう)。
身分に差がある相手を愛するときに男の胸に去来する「彼女に苦労をかけさせてし
まうんじゃないだろうか」という類いの不安、あるいは社会的階級のちがいによる
劣等感を抱きながら話しはすすむ。
男がそのような問題に逡巡する姿は、どうやら近代も現代とかわりがないようだ。
普遍的でよいお話である。
だが、すべてはナレーションがこの作品のすべてをスポイル(観客に嫌悪感を抱か
せる)するという残念なことになってしまっている。


本作では、清兵衛の娘(ナレーター)が回想的に自分の幼少時代を懐古するように、
当時の状況、また父清兵衛について説明していく。
家計に余裕がない清兵衛は職場の同僚や世間で嘲笑されているのだが、ナレーター
は「そんなことを父はまったくそんなことを気にもかけていないようすでした」、
と抑揚をつけた古めかしい語調で清兵衛という男を説明していく。
同僚に声をかけられても女遊びなどせず、痴呆気味の母、まだ幼い子どもたちを養
育するために、畑仕事に家事にと励む男の姿はたしかに格好がいい。
だが、これをナレーションが語り出すと、すべて台無しになる。
彼女が清兵衛という男の人物説明しだすと、途端にヒロイックな人間として、眼前
にあらわれるようになってしまうのである。
それが彼の本来のキャラクター性と齟齬を生じさせ、なんだか、ちょっと気持ち悪
いなという嫌悪感を抱かせる原因になっている。
あぁあ。


どのような人間であるか、判断をくだす人間の拠りどころとなる価値観は千差万別
である。
告白できずに身をよじらせている男を見て「母性本能をくすぐる人だわ」と評する
人も入るし、「ただのチキンね」という評価を下す人もいる。
どの切り口から見るかによって、評価の対象は、まったく別の意味をもつ存在にな
る。
そう。
問題は人物その人にあるのではない。
評価をするものの視点によるのだ。
だから、ナレーターという一つの体系的な価値観を有しているものが、清兵衛とい
う人物についてものを語るというのは(映画の語り部として)ルール違反なのであ
る。
それは他者による意味(価値観)の押しつけである。
人物をどう判別するかという解釈の自由は観客に任せるべきだった。
制作者がそこにまで介入すべきではない。