『もしも昨日が選べたら』



仕事より家族の方が大切だぜ。
この家族至上主義の話にどうもよわい。
おもえばマイフェイバリットムービーの『天使のくれた時間』もおなじ話形
だ。
家族を幸せにするためという大義名分を掲げながら家族をまったく顧みずに
仕事に没頭する男が、ある出来事を契機に家族と過ごす時間の尊さに気づく
というそれに。
この家族至上主義をを批判することはわりと簡単だ。
その種の映画はたいてい家族のよい面だけを描いているから、あまりにも家
族間の関係性を単純化(美化)しすぎているだろ、とでもいえばいい(それ
に家族と生きる時間の尊さだけがやけに際立たされ、個人の時間を大切にし
たいという欲望によって生じる葛藤の捨象も気になる)。
ふつう嫁さんはケイト・ベッキンセイルみたいに奇麗じゃないし、父親が何
十年とバカ野郎でも妻子が愛想を尽かさずに愛してくれるなんてこともない。
愛が無条件で与え続けられるなんてことは、母子の間柄でもない限りありは
しないのだ。
だから、サンドラーがいくら愚行を重ねても、家族は変わらず愛し続けてく
れるのは、どうしてもご都合主義に感じてしまう。
が、しかし、それでもサンドラーが取り返しのつかない愚挙(妻や子どもた
ちと過ごす時間を万能リモコンを使ってすべて早送り(=人生の合理化)し
てすっ飛ばす)におよび、その末に愛するものたちをすべて失うという代償
を支払って悔恨するとき、どうしようもなく泣けてしまうのである。
とりわけ、(早送り中に、知らぬうちに)父親を亡くし、自らがどれだけ父
を軽んじてきていたかを知ったときの彼の無念は、そんなもん自業自得だろ
とは切り捨てられない身につまされる思いがした。
しかし、それはなぜだろう?


天才発明家のクリストファー・ウォーケンは時間を自由自在にコントロール
できる万能リモコンをサンドラーに授けるとき「返品不可能」であることを
トリセツ代わりに告げる。
「タダ(FREE)なのに返品するわけないじゃん」とウォーケンを一瞥しなが
らサンドラーは聞き流すのだが、これは時間が不可逆であることを警告した
比喩だったのだろう。
ぼくらは時間を戻すことはできない(時間は不可逆だから)。
だから今を精一杯生きるしかない。
だけど、煩わしいことばかり頻出する現在を生きるていると、つい輝かしい
(というか、そうであってほしい)未来を志向したくなる。
が、それはすなわち今を疎かにすることと同義だ。
未来ばかりを夢見て生きるものは現在を生きていない。
それは現在を「生きている」というより、ただ「生存している」にちかい
(←サンドラーがとても的確にそれを表現している)。
この未来志向の偏重性の風刺は胸にぐっと刺さるものがある。
ぐっとくるわけ。
それはおなじ人間であるものがつい陥ってしまう愚かしさという点で繋がっ
ているからである。
みずからの愚かしさは、いつだって事後的にしかわからない。
だからサンドラーが人生の合理化を決行して失敗し、わずかながらも家族と
の交流する機会を得て「悦びは合理性を越えたところで得られる」という不
条理を身を以て得心したとき、観客はその場に立ち会いながら(ご都合主義
的であるとわかっていても)涕泣してしまうのである。
近代が一分一秒を惜しむ合理化を追求する時代であるからこそ、合理化思考
を習得し実践するぼくたちにとってこの話形は、大きな感慨をもたらすのか
もしれない。