『<子ども>のための哲学』

哲学書には知的なイメージつねにつきまとっている。
新書でも、たとえば『これがニーチェだ』*1(@永井均)を持ち歩いていたら、そう
いった目で見られたことがあった。
イメージと事実との間には長い長い径庭があることをのちに知ったその人は、当惑
した顔をしていたけど…。


永井均の著作『<子ども>のための哲学』の最終章に哲学とは何かという本質的な
ことを問題にした思索が書かれている。
ちょっと引いてみたい。


<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス

<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス

ノーマン・マルコムの『回想のヴィトゲンシュタイン』の中に、ウィトゲンシュタ
インが、哲学をしばしば潜水にたとえたという話が伝えられている。人間の身体
は、自然にしていると水面に浮かび上がってくる傾向がある。哲学的に思考するた
めには、その自然の傾向に逆らって、水中にもぐろうと努力しなければならない、
といった話だ。(前掲書、p194)


ぼくがら哲学と聞いてイメージするのは、まさに水中に深く潜ってなにか深遠なこ
とを発見する行為としてだろう。
水中にはすばらしい知恵が埋まっているように(水面に浮かんでいる人間には)見
える。だから、哲学書を読むことは、宝探しをするような目的で読んでいるひとも
多い(自分のもそのひとり)。

でも、水中に沈みがちな人にとっての哲学とは、実は、水面にはいあがるための
唯一の方法なのだ。ところが、水面から水中をのぞき見る人には、どうしてもそう
は見えない。水中探索者には、何か人生や世界に関する深い知恵があるように見え
てしまうし、ときには逆に、そんな深いところに済むことが、水面でふつうの生活
にとってどんな役に立つのか、なんて、水中にいる人間が聞いたら笑いたくなるよ
うな(あるいは泣きたくなるような)問いが、真面目に発せられたりもする。この
二種類の人間に取って、哲学の持つ意味はぜんぜんちがう。(同書、p195)


そうなのか。
つい、いまのいままで、哲学をどこか実利的に見ていた。
哲学者が残した言葉には現実世界の見方をいっぺんさせる深い洞察がある気がして
(実際あるのだけど)、そこから何かを学ぼうとしていた。
動機は?
知的好奇心。
そういえば格好がいいけど、ただの好奇心にすぎない。あるいは、退屈しのぎ。
けど、「哲学」をしている人は、自らが水面に浮かぶためにもがき苦しんでいたの
だ。それが、哲学者が残した言葉だった。

もし問いがまったく独自の(自分ひとりの)ものであれば、それはだれにも通じな
いだろうし、「哲学」との接点もないだろう。それでもかまわないのだ。
 だから<哲学>は、それをした人の死とともに消滅していいのだ。それがまわり
の人々に影響を与えるかどうか、あるいは「哲学」として永遠に世に記憶されたり
するかどうかは、ひとに伝えたいと願う程度や宣伝効果や、そして又、問いがどの
程度ありふれていてどの程度に新鮮であるかのころあいが、つまり通俗性と新奇さ
のバランスが決めるのであって、<哲学>そのものの価値とは関係ない。(同書、
p201)


これで哲学を見る目がまったく変わっちゃったな。

*1:

これがニーチェだ (講談社現代新書)

これがニーチェだ (講談社現代新書)