『ボルト』



犬を飼ったことのある人には、「あるある」が多数発見できる映画になっている。
きっとバイロン監督らは仔細に犬を観察したのだと思う。
でなきゃ、飼い主が家をあとにするとき、犬がくぅ〜んとちょっと高くて甘えた声を出し
ながら顔をすりつけてくるあの犬の心理を表現できるわけがない。
そうした愛犬家のこころを捉える胸キュンポイントがいくつも抑えられている。
そのたびにいちいち涙腺が緩む。
グスン。
愛犬家には、だからちょっと辛い映画だと思う。
映画館で嗚咽するわけにはいかないから、ぜひハンカチを用意してお出かけしてもらいた
い(劇場の電灯がつきそうになったときには焦った)。
冗談ではなく。
ぜひ。


物語の筋としては、ボルトが「おのれとは何か」を知る(教養小説的)ジャーニーである。
映画スターとして活躍しているボルトは(そうとは知らされずに)スーパードッグとして
育てられてきたため、自らが有している(と思ってる)超能力のスゴさにまるで気づいて
いない。
ボルトはそれが当然の能力だと考えている。
使えて当然じゃん、くらいの感じ。
ペニー(ボルトの飼い主)を捕獲しにきた数十台の戦車や戦闘機に向かって「ウ〜〜〜、
ワン!」と吠えればそれらを風圧ですべて吹き飛ばすことができ、ビルとビルの間を軽々
と飛び越えられ、コンクリートの壁だってぶち破ることは朝飯前だと思ってる。
どうみてもスーパードッグである。
にもかかわらず、ボルトにはそんじょそこらの犬とは違うのさ、という傲慢さはまだ芽生
えていない。
不思議だ。
少女を守る(悪党に狙われているペニーを守る、という大人によって作り出された設定=
世界に彼は生きている)ことを生きることの意味にしている犬には、それは必要な能力で
はある。
しかし、青年が自らのスゴさを夢見ながらゆくゆくはその凡庸さに気づかされるように、
ボルトもそれと変わらないそこらにいるただの犬である。
問題は彼がそのことをまだ知らないことだ。
なぜ彼はそのような「勘違い」をしたままで生きてこられたのか?
それは、現実と対峙する必要性がなかったからである(ボルトは現実世界に触れないよう
に小さなトレーラーハウスに閉じ込められてる)。
ぼくらは現実に接触することによって、はじめて自らの立ち位置を知ることになる(劇中
では皮肉屋のネコがその役回りを勤めている)。
現実はきびしい。
犬がせいいっぱい吠えたところでネコ一匹脅せないし、マンホールひとつ飛び越せないし、
金網ですら突き破ることだってできない。
ボルトは自分のカラダに起きたことが信じられない。
超能力が突然使えなくなった(結果)のは、発泡スチロールのせいだ(原因)と推論して、
もともと使えなかったのではないかという仮説を立てるところまで考えが及ばない。
あるいは、心のなかではおそるおそる考えていたかもしれない。
オレ、ひょっとして、すごく平凡な犬なんじゃないか、と。
だが、それはそう簡単に認められることではない。
自分ができると確信すること現実に起こせることとの間にはあまりに隔たった距離があり、
それを受け入れられるようになるには、あるていどの時間の経過が必要だ。
そうしてようやく粛々とおのれの限界を知り甘受できるようになる。
親の庇護化から徐々に巣立ち始める子どもたちがそうであるように、外の世界との接触
通じて人は「おのれを知る」ようになる。
逆説的に言えば、人は外の世界に触れることなしに「おのれを知る」ことができない。
外の世界という現実に旅立つことによって、はじめておのれを相対化することができる。
ボルトが最後にみせるのは、ふつうの犬であることの肯定である(ここは『サマーウォ
ーズ』にも通じる。「ふつう」だってやるときはやるのだ)。
じぶんはスーパードッグではない。
たいした犬ではないことは、たまたまダンボールの中におちて宅急便によりニューヨーク
まで運ばれてしまい、そこからハリウッドへ帰るまでの旅の過程で十分思い知った。
だが、たとえそこら中にいるふつう犬とおなじであったとしても、愛する人を守るために
やれることはあるはずだ。
ボルトは絶望的な状況を打開すべく尽力する。
このオチのつけかたが伏線を実にうまく使っていて見事だった(このシーンの少し前から
号泣ポイント。あれは、やばかった)。


しかし、これだけ賛美してもこのような向き↓もあるかもしれない。
「そうはいっても、しょせんはディズニーのアニメだろ。
ベタで甘っちょろいハッピーエンドがヤツらの大好物だもんな。
あれはお子様がみるものさ。
パスパス。
おれはいいや。」
…ぼくもそう思っていた。
が、もしそうお考えならぜひ再考してほしい。
制作にあのジョン・ラセターが参加しているのだ。
彼はベタで甘っちょろい映画をつくるほど愚かな映画人ではないのはご承知のはずである。
構成も完璧。
スキがまるでない。
ピクサーの全作品がそうであるように、『ボルト』も大人の鑑賞に十分耐えうる作品になっ
ている、という擁護の常套句が永遠にあてはまる。
というより、大人のほうがより楽しめるようになっている。
なにせ酸いも甘いも知っている大人には、ボルトがみせる献身的で盲目的なほど純真な愛
情に陥落しちゃうから。
ぼくらが犬を愛する理由は、ほんとうのことを言えばそこんとこにあるんじゃないかと僕
は思う。
必見。