『いきなりはじめる仏教生活』

本日はかんたんなメモを。
でも、中味はぜんぜん「かんたん」じゃないです。

内容は仏教。
宗教かよ、うわぁっ、とひいてしまわないでね。
自分のような素人がいうのも「身を弁えろ!」という感じで恐縮なんですが、少なくとも仏教は
マジすごいっす(あぁ、これでまたひかれただろうな)。
それはともかく。
『いきなりはじめる仏教生活』では、序章で現代社会の分析が行われていて、そこが大変本質を
ついているようにおもうのでメモっときます。

いきなりはじめる仏教生活 (木星叢書)

いきなりはじめる仏教生活 (木星叢書)



第一章 自我*1のバブルは続いている


なぜ生きることが、これほどしんどいのか?

近代社会というシステムは、基本的に欲望を煽る構造を持っています。
なぜなら「進歩」や「効率」という価値基底によって成立しているからです。
効率よく進歩発展することこそより良い社会、幸せの道。昨日より今日、今日より明日、一
歩でも前に進み、努力して競争に勝てば、幸せをゲットできる。日本で言えば、高度成長期が終
焉するまでそんな<大きな物語*2が機能していました。そしてそれは、「知性や理性の力によ
って人間は幸福へと到達できる」という信仰に裏づけられていました。(p20)


CMはガンガン僕らの欲望を煽ってくる。
雑誌(「LEON」とか)にしたってそうだし、TV、映画、blog、それに友人らとの会話だってそ
う。
ぼくらは欲望が煽られることを前提とする社会に生きてる。
で、欲望は簡単に「煽」られる。
そして、それは「進歩」や「効率」を追い求める近代の社会システムの価値観によって賦活され
ている。
ほら、キミ。
そんなにグズグズしていていいのかね。
みんな、ずっとずっと先に行ってるのに、キミはまだそこでグズグズしていて…。
キミも資格なんか取ったらどうだね、と(いないですね、こんな人)。
「進歩」「効率」こそが「良い」とされている社会通念(価値観)のある中で、これに逆らうの
は至難のわざだ。
だから、オレも行かなきゃならん、ととりあえず重い腰にムチ打って走り出すわけ。
でもって、自我は次第に「肥大化」していく。

煽られることによって"自分というもの"は肥大化する、それは誰しも容易にイメージ
できます。でも仏教では、そもそも「自覚的に整えない限り、放っておいたら、"自分
というもの"は肥大し、暴れる」と考えます。そして、"自分というもの"が肥大すること
と、生きる上での苦悩が肥大化することは比例する、と説いています。(p29)


当然の帰結だよね。
で、その手の煽りの常套句には「キミには無限の可能性がある」んだとかなんだとかいう、大人
になったぼくらには鼻白むものがある。
でも、しかし、なぜ自我の肥大は苦脳と密接にリンクしているのだろう。
それは自我がぶくぶく太ることによって、「現実」と「認識」が一致しなくなることに起因する。
「君には無限の可能性がある」、「あきらめなければ夢は叶う」なんていう文句はモロに自我の
欲望を煽り、肯定している。
それを真に受けたぼくらは、だから必死に走る。
けど、ムリなものはムリ。
もちろん、それによってどこかへたどり着くことはできるかもしれない。成長もあるかもしれな
い。が、たいていは挫折と深い失望感を味わうことになる。
絶望。
それだけが僕らの前に横たわる。
そこで、「がんばらなくてもいいよ」「君は君のままでいい」的な近代的価値観(「進歩」「効
率」)から降りることを肯定する人たちが出てきた。
これも納得。
ここにおいて、<大きな物語>(たとえば、大企業に入社できれば幸せになれるetc)が解体され、
自分だけに興味関心があるという<私の物語>へとシフトしてきているのがみてとれる。
<私の物語>とは「私とは何者か」「私は何を求めているのか」「私はどう生きればよいのか」
といったリベラリズム*3リバタリアニズム*4的な価値観であり、それらが台頭してきた。
だけど、あまりに「私」に意識が向かうことが苦悩を生み出すことになっている。
でも、なぜ苦悩なのか。苦しいのか。
それは気持ちよくないから。
認識と一致すれば「快」。不一致ならば「不快」となる。
しかし、

仏教では、快、不快に支配されている間は本当に生と死の苦悩を解体することはできないと考え
ます。そりゃそうです。認識に柔軟さがなければ、認識と現実との落差は大きくなりますし、補
正することも困難になりますから。「こうでなきゃならない」と思っている人ほど、そうならな
いことに苦しむというわけです。


「男たるもの、食事代はおごるべき」(でも、金がない。涙)
「親たるもの、子どもはしっかりしつけるべきだ」(けど、息子はすぐに反発する…)
「人生一度きり。やりたいことをやるべきだ」(しかし、働き口がまるでない)


などなど。
ようするに、上記のような「〜であるべき」的な「認識の枠組み」が強いと、現実と認識との乖
離が激しくてむちゃくちゃ苦しい、というわけ。
そこで仏教は、

まずは認識と現実の関係を分析せよ、そして何が苦を生み出しているのかを自覚せよ(P36)


と提案する。
自分の頑な枠組み(思い込み)が、苦しみを生み出すという自分の首を自分で締めていることに
気づきなさい、と。
つまり、自我を基礎にし、そこに立脚している限り、苦しみは解体できないと仏教は考える。
で、まとめると、

「自我や自分という概念がなければ現代社会を生きていくことはできないが、実はそれが現代社
会を生きる上での苦悩を生み出している元でもある」
(…)
なんとアンビバレントな、なんと不条理な話でしょうか。(P54)


まったくだね。

*1:「自分はだれだれであり、社会の中でこういう位置にいて、こういう役割をもっている」という物語の体系 @本田透

*2:「原罪の愛による購いというキリスト教的物語」「認識と平等主義による無知と隷属からの解放という啓蒙主義の物語」「具体的なものの弁証法による普遍的理念の実現という思弁的な物語」「労働の社会化による搾取・阻害からの解放というマルクス主義的物語」「テクノ=インダストリアルな発展を通じての貧困からの解放という資本主義的物語」@リオタール

*3:自由主義:さまざまな価値観の中で、自由を尊重する立場

*4:自由至上主義:他者の権利を侵害しない限り、各個人の自由を最大限尊重すべきだとする立場。特に個人の自由を尊重する