自由否定”free won’t”→『単純な「脳」、複雑な「脳」』

池谷裕二さんの『単純な「脳」、複雑な「脳」』を読んだ。
自由に関する議論がとっても面白い。

単純な脳、複雑な「私」

単純な脳、複雑な「私」

他者に制御されているのを知らなければ、それは「自由」である(p256)


これは『マトリックス』のアンダーソンをイメージすればわかりやすい。
マトリックスの世界の住人は、他者(人工知能)に支配されていることを知らない。
その限りにおいて、マトリックスの住人は「自由」である。
実際に支配されているとしても、彼/彼女の頭のなかに「支配されている」という
思いがなければ、それは「支配」ではなく「自由」である。
つまり、自身の思考の埒外のものによる「支配」は、個人に認知されることがなく
それゆえ自由を侵略しているとはいえない(まぁ、ある意味してはいるのだけど)。


で、自由にはもうひとつポイントがある。
それは、

「自由は、行動よりも前に存在するのではなくて、行動の結果もたらされるもの」
ってことだ。
 普通の感覚だと、自由意志って、「行動する内容を自由に決められる」という感
じで、あくまでも「行動の前に感じるもの」だと思いがちだけど、本当は逆で、自
分のとった行動を見て、その行動が思い通りだったら、さかのぼって自由意思を感
じるんだね。結果が伴わない限り自由はない。
(…)
自由意思は、存在するかどうかではなくて、知覚されるものではないか、とね。
(p258)


自由な意志が「存在する」という前提から始めたら、なかなかこの仮説には到達で
きない。
たしかに、自由を感じたときのことを回顧してみると、起こった出来事に対し「オ
レは、こうなることを望んでいたのだ」と意志していた→それが叶った、という順
序ではなく、物事が生じた→望んでいたものが叶った、という具合に後付け解釈し
ている節がある。
つまり、自由を志向する意識が先にあるのではなくて、現在の気分や思考から生じ
たこと(過去)を解釈するようなものだと。
そして、話はこう続く。

 

手首を動かしたくなったとき、その意図が生まれた経緯には自由はない。動かした
くなるのは自動的だ。でも、「あえて、今回は動かさない」という拒否権は、まだ
僕らには残っている。
(…)
僕らに残された自由は、その意志をかき消すことだから、「自由"意志”」ではなく
て、「自由”否定”」と呼ぶ。英語で言えば、自由意志は”free will"自由否定は"free
won't"と言う。(p262)


先日サム・ライミの『スペル』という映画を観た。
サブプライム・ローン問題を扱った映画だ。
ローンの返済ができなくなった老婆が、銀行にやってきて「もうちょっと待っても
らえませんかね」と平身低頭して懇願する。
が、融資担当係の女性(アリソン・ローマン)は、延長することはキャリアに影響
することを恐れ(彼女には出世しなきゃならない、非常に同情の余地のある動機が
ある)、老婆の依頼を断る。
彼女には老婆を助けるというオプションもあった。
実際、彼女は上司に、なんとかなりませんかねと掛け合ってもいる。
だが、上司は、君に任せるよと彼女にすべてを一任する。
彼女は散々逡巡する。
老婆の運命はすべて私の手の中にある。
生かすも殺すも私の決断次第なのだ。
私が延長すれば老婆は助かる。
しかし、延長を断れば老婆は路頭に迷うだろう。
彼女の頭にいくつものオプションが浮かび思案する。
そして彼女は決断を下す。
老婆を助けるという頭に浮かんだ選択肢を「自由否定」するのだ(おかげで、その
後2時間、散々な目に遭うことに。ひーーー)。
頭に浮かんでくるものは自動的だ。
「あいつ、口臭がキツいな」とか「絶対あの子はオレに気があるぜ」とか、「明日
仕事行くのめんどくせえな」とかいった邪悪な考えを「こら、そんなこと考えるん
じゃない」と指令を出して規制することができない(指令することはできるけど、
そのときはもう浮かんできてしまっているのだから、浮かぶことそれ自体を禁止す
ることはやっぱりできない)。
なんとなれば、僕らに許されていることは、浮かんできたものを「否定」するこ
と、つまり「自由否定」する権利しか与えられていないのである(『スペル』の主
題はこれをめぐったものだった)。
やっぱり池谷さんは面白いこというね。
ボクが池谷さんに言わせているだけかもしれないけど(笑)。