フィクションにも真実味→『少年メリケンサック』

クドカンの『少年メリケンサック』を観た。



お話のプロットは、25年前にパンクバンドを組んでいたおっさんたちが、レコード会
社に勤める宮崎あおいの御眼鏡に適ってパンクバンドを再結成したけれど、問題が多発
してうんぬんという映画である。


クドカンはあいかわらずオープニングでの掴みがうまい。
観客の予測をうまく外した小さなギャグで笑いをとる技術は冴えてる。
中年のおっさんパンクバンドが全国ツアーをスシ屋の配達車(マネージャー宮崎あ
おいの実家がスシ屋で、親父さんに借りたものとみられる)で巡業しているとき、
ある出来事がキッカケで言語障害に陥っているヴォーカル(田口トモロヲ)のキャ
ラ設定をイジったネタがある。
これには幸先のよい印象をいだいた。
おぉ、今度のクドカンはいけそうだ、と。
だから、次第にこの作品があやしげな動きをしだしたときには、やはり悲しい気持
ちになったりもした。


クドカンは序盤の引きがめっぽううまいのだけど、ストーリーテラーとしてはまる
で冴えない。
大きな問題点として、登場人物の行動目的が理解できないところにあるとおもう。
そしてそれはリアリズムの問題だったりする。
理由を説明させていただく。
バンドのメンバーであるキム兄佐藤浩市が仲違いしているんだけれども、なぜそ
んなに憎しみあっているか、その必然性がぼくにはうまく理解できないのだ。
いや、一応、仲違いしている背景はあるカットが挿入されてなされている。


彼らが若かりし頃、パンクバンドで売っていたため、バンドの定義上、ステージで
暴れたほうがいいだろ、という安直で軽いノリで始めたどつきあいが、いつしかほ
んとに憎しみあうようになってしまって、キレた佐藤浩市キム兄を犯罪の罠にハ
メたから、というのがクドカンの説明。
ま、そりゃ不和になるよ。
ただ、ほんとに肉親(キム兄)を犯罪者にまで陥れたりするものだろうか?
僕は懐疑的である。
そして、このような登場人物の行動原理に対する疑問を抱えてしまったものには、
のちに彼らが和解するシーンを迎えてもカタルシスを味わうことなどできっこない。
加えて、その和解のシークエンスでキム兄佐藤浩市がなぜ和解しているのかの説
明がないんだからもうやりきれない。
キム兄佐藤浩市にされたことを「昔のことだから気にしていない」くらいのこと
を言って、丁寧な描写が必要とされる中、お話は説明もなしにどんどん進んでく。
佐藤浩市も、キム兄によってなされた反撃(心が折れそうになるくらいヒドいこと
をされます)をいつしか水に流してる。


「いやいやいやいや、あなたたちなんかいつの間にか仲直りしているみたいだけど、
オレたちぜんぜんついていけてないから。
ってゆーか、オレたちに見えてないところで一体何があったの?」


という観客の頭に浮かぶとうぜんの疑問にこの映画は最後まで答えてくれない。
でもさ、だったら、この映画にその兄弟喧嘩の話なんていらないじゃん(あれ、こ
の間の作品とおなじ展開…)。
兄弟がケンカせざるを得なかった事情・背景を見せ(観客を納得させ)、相手に対
する不満から対立し(観客をハラハラさせ)、兄弟間の関係を修復する(観客をう
るうるさせる)、また、その対立のプロセスで彼らがどのように成長したのか(を
観客は映画から学ぶ)を描かないのであれば、それは映画に観客を誘うための


「あるある。そういうことってあるよね〜」


の日常性をネタにしたフックに過ぎない。
コメディ映画を撮るのだとしても、もし兄弟間の不和にオチを、それも観客の心を
打つオチをつけようと思うのなら、主人公らの行動目的ー行動に関してはリアリズ
ムでおさえなければならない。
でなきゃ、その物語の真実味は決定的に損なわれ、「自分たちの世界の話」として
認識することができない。


たとえ架空のお話であるフィクションであっても真実味は物語るに欠かせないファ
クターである。
なぜなら、ぼくたちは架空のお話を、この世界の延長線上してとらえるからであり*1
であるからこそ、人は映画や物語に夢見ることができる。
現実とフィクションを結ぶ共通項は、その真実味である。


少年メリケンサック スタンダード・エディション[DVD]

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*1:ただし、ぼくらが認識できる限界地点からフィクションの世界までのあいだには目に見えない隔たりがある。もや〜っとした霧がかかっているかんじ。