批判ってのは根拠と導出にツッコミを入れること→『論理トレーニング101』

論理トレーニング101題

論理トレーニング101題


ぼくらはよく批判をする。
最近のネタだと「ジュード・ローがワトソン役っておかしくね」とかさ。
でも、それは「批判」じゃない。
「ワトソンのようなちょっと抜けた役柄をジュード・ローがやるって・・w」といっ
た違和感に端を発した主張がダメだ、とかいうえらそーな話じゃないので気をつけ
てね(この間観てきたけど、あれはあれでワトソンとしてありじゃね、という気も
したよw)。
この「それ、おかしくね」的な発言を論理学的にいえば、異論と呼ばれるものにな
るようで、つまり、その種の発言を論理学的には批判という言葉では呼びません、
とそうゆーことがいいたいのですよ。
えぇ。
じゃあ、批判ってのはなんなのさ。
どうすれば「批判」になるのさ。
当然の疑問ですよね。
お答えしましょう。

批判とは、異論を唱えることではなく、立論の論証部に対して反論することである。


はい、キタコレ。
『論理トレーニング101』にはそう書いてある。
でも立証に異論って意味わかんね。
じゃ、そこも(本書を使って)説明しちゃうね。

立論とは、あることを主張し、それに対して論証を与えること。
異論とは、相手の主張と対立するような主張を立論すること。


ということらしい。
でもそんなこといってもよくわかんないんで、さっさと具体例をつくってみよう。


映画は映画館でみるといいよね。(立論)
だって、スクリーンは自宅テレビとは比較にならんくらいデカいし、あの音響は自
宅じゃ無理だし、なによりおなじ映画を見に来た人々と一緒に映画を体験(共有)
することって、楽しいじゃない。(論証)
だから映画は映画館でみるべきだとおもうんだよね、オレは。(結論)


こんなロジック、そこら中にありそうだよね。
ちなみにこの立論は、「映画なんかツタヤでDVD借りてきて家でみれば十分だよ」
に対するものになってる。
で、これを分解すると、


立論:映画は映画館でみるとよい。


論証(根拠):1スクリーンがでかいし、
       2音はいいし、
       3体験を共有できるじゃん。


結論:だから、映画館でみるべきだ。


となる。
ついでに、図式化しちゃおう。


1+2+3→4


はい、できました。
1〜3の根拠が4の「映画は映画館でみるべきだ」を支えるという構造になってる。
で、肝心の「批判」はといえば、その論証部の1〜3の根拠の正当性、あとはそれ
を根拠に結論を導けるか(導出、というそうです)、というところをチェックして、
ダメなら反論を唱えることらしいんだよね。


じゃ、さっそく「批判」をやってみよう。


1. スクリーンがでかいのって、そんなに重要なことかね?そもそも見れさえすれ
  ば、画面の大きさはどっちでもよくね?


2. 音がいいって、具体的にどういうことよw もっと具体的に言ってよ。でもさ、
話の内容が聞こえる、っていう意味では、おなじじゃないの?


3. 体験を共有することって、そんなに重要なことかね?オレは一人でいいよ。ぜ
んぜん。


批判のまとめ:スクリーンがでかくて、音が良くて、一緒に体験するのが楽しい、
といっても、それは「人それぞれ」であって、「だから」映画は映画館でみるべき
だ、という主張にはならないんじゃないの?それって飛躍しているんじゃないの?


と。
まぁ、こんな批判もありえるんじゃないかな。
相対主義的批判に文句はあれどw
ここを解説すると、すっごい長文になっちゃうんで端折ります。
そこはまたの機会に。
ようするに、だ。
批判するときのチェックポイントは、ある立論に対して、


1.根拠は適切か(1〜3)
2.導出は適切か(1〜3をもとに、4を主張できそうか?)


をチェックし、ダメならツッコミを入れること。
ってことらしいんだよね。
ただその視点で拙文を分析されたら、もうボロボロになってしまうからやめてねw